『蜷川実花の世界』
         −後編−


§Text2§
  ある寓話

text:Keita Nakayama

 少女はその夏のあいだ、ずうっと墓地で過ごした。

 少年はその夏のあいだ、穴を掘りつづけていた。

 

 太陽が西に傾いて仕事を終えるころになると、少年はかたわらに道具を置いて少女に話しかける。

「ねえ、いつもそこでなにを見ているの」

 少女は冷たい墓石に腰をおろして、ただあなたが穴を掘るのを眺めているの、と答える。

「ふうん」少年は夕暮れの風に吹かれながら、ちょっと言葉を失う。

 夕暮れの風が、ふたりのあいだにひそやかな沈黙を運んでくる。

 

 やがてあたりが暗く、すべての色彩が空と海の蒼に溶け込もうとするころ、少年は自分の掘った穴の脇にたって今日の仕事を見つめる。明日はこの穴が埋まるだろうか。その次の日はどうだろう。こうして毎日自分が仕事を続けていると、やがてこの島からはひとの姿が消えてしまうんじゃあないだろうか。そうしたら、自分の入る穴はいったい誰が掘るんだろう、と。

 

 蜷川実花は、カリブ海のちいさな島の海辺の墓地がたいそう好きなのだそうだ。その場所にはいつも墓標に花が捧げられ、潮の香りが満ちているのだという。それはそれは幸せな場所なの、と彼女は言う。確かに彼女が撮った花と墓石の写真は観るものの心に滲みるある種の幸福をたたえている。

 でも、果たしてそれはこの世の幸福なのだろうか。

 それはもしかして、生の終わりととなりあわせの幸福なんじゃないだろうか。

 

 熱帯のぬるい空気も素朴な島民の暮らしも、不透明な原色の家なみも、すべてこの世の尽きた向こう側に流れ落ち、途中でひっかかって揺られているんじゃないだろうか。

 そうやって蜷川実花の作品を観ると、彼女が魅かれてやまないモチーフの正体が見えてくるような気がする。

 彼女のプリントがただ美しいだけでなく、いつもどこかに痛みと哀しみと儚さが漂うのは、きっとそういうことなのだ。蜷川実花はファインダーを通して、生の向こう側を見つめているのだ。原色のゼリーのようなエスカレーター、濁った水槽のなかの金魚、そして熱を帯びた楽園。その不自然な空気の向こう側にあるのは、ひと思いに消え去れない生と死の世界なのだ。

 勝手に納得して、この解釈を本人にぶつけてみようと思いながら、働き者の理性

がいつも止めに入る。だから僕の想像は、まだ島に置いたままだ。行ったことのない

、あの島の墓地に。

 

 少女は、今日もお気に入りの墓標に腰かけて穴を見つめている。

 少女の目の前の穴は掘り手を失い、陽の光にさらされて乾いていく。この穴のうえに綺麗な石が置かれるのはいつだろう、と少女は思う。そうしたら、この場所に似合う花を摘んでこよう。あの少年の瞳に映っていた空とおなじ色の花を。

 

 幸福には、いつもふたつの顔がある。

 

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(C)Ninagawa Mika

 


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Photo Keita Nakayama

 


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Photo Keita Nakayama



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