岩絵具でアブストラクトに出会いたい


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1997年2月掲載



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る日都内の裏通りを歩いていたら、ふと心に留まる絵を目にして吸い込まれるように『画廊』というところに生まれて初めて入ってしまった。受け付けの女性が「お名前をお願いします」と結婚披露宴以外では見たことがない御芳名帳を勧めてくれただけでドキドキして「いえ、いいです」なんて言ってしまう。一歩奥に進んでみれば、寄せては返す色の波が壁一面に掛かっていた。今の世の中にはこういう絵も存在するのか、知らなかった。マウスの前衛画家は土下座するしかない。




れらの絵を描いた人、山田昌宏さんは、ずっと敷居が高い、と思い続けていた日本画と抽象画をダブルで引き受けている画家、なんだけれど、その絵は、もったいぶって『芸術』だの『伝統』だの『アート』だの、見る人に、ありがたがることを押しつけるような胡散臭いものではない。女子供が喜びそうなファンシーでスイートな色使いとも違う。きれいで勢いのある色彩が、日本画独特の画材のマットでざらざらした感触で重ねられていて不思議な深みがある絵だ。



 世間のサーチエンジン的ジャンル分けでは一応“日本画の抽象画”とされているらしい。そうか、こう言うのも、日本画で抽象画なのか。これなら熟語二連発くらいで許してもらえそうだ。というわけで、山田さんの話を伺おうと、ノコノコ訪れた北鎌倉の、山田さんが講師を務めている『早見芸術学園 造形研究所』は名前の厳めしさとは裏腹の山の分校風ののどかな佇まいで、敷居は、なかった。草むらで猫が寝ていた。




天然紺青

のすごぉく一般的に言うと西洋絵画、というのは面で構成されている(と美術の時間に習った記憶がある)。人物の鼻の陰が暗ければそこは黒っぽく塗ってあって、鼻のアタマが明るければ白っぽい面で描かれる、といった具合だ。

 ところが東洋の絵画というのは線で輪郭を描き、影を大袈裟に書き加えることなく、書き加えようがないのが東洋人の顔面なのだろうが、光がどこから照ってようがデフォルメがなされ、乱暴に言えば漫画なのだけれど、でもそれで動きから状況から全てが表現されてしまうというものというのが古典的教科書ノリの読み方である。



 山田さんの絵って、そういう意味では線、ではなくて、面、ですよね。「あー、線ていうのは均等な幅で細く描かれているものなんだと思ってるんですが」じゃぁ、書道とかで線だと思って描いているものは?「石川九楊が言ってますけど、もはや線ではない、と」輪郭線はあるけれど、日本画もやはりあれは面、ということなのだろうか。

 「紙やキャンパスって平面でしょ?その上に描かれる奥行きや立体感はCTスキャンのように細分化して物を見つめた結果だと思う」と山田さんは言う。「西洋絵画がみっちり隙間なく細分化しているのに比べて東洋の絵画はその間隔が広いんじゃないかと」そう言いながら手近にあった小さなパラフィン紙を重ねて見せてくれた。「こうやるだけで、奥行きって出るんですよ」日本画で主に使用されている岩絵具ってのは要するに“粉”で、よほど濃く溶かない限り半透明だ。塗り重ねれば重ねるだけ背後にある色が深みに作用する。山田さんはその色と色の境界に距離感の秘密を見つけてしまったようである。


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