マカロニアンモナイト
webマガジン「マカロニアンモナイト」月刊特集
『ひんやり熱いガラスの話』-後編-


取材・文・写真/中山慶太
1 2 3 4 5 6 7 1997年7月掲載


 ひととおり撮影したところで、外の嵐はますます激しくなってきた。そこで窯の火を落とした篠原さんとともに母屋に退散する。こちらでは三人の女性が絵付けを行っていて、実はそのうち二人は篠原さんの家族(奥さんとお母さん)なのだが、どうやら篠原風鈴本舗では“男が吹き、女が描く”という分業システムが確立されているらしい。

 絵付けは顔料をワニスで溶いて行う。ガラスの裏から筆を入れるため、普通の絵とは逆の順序で描くことになり、これも熟練が必要な作業である。絵柄も伝統的なものから現代的なものまで、すこぶるバラエティーに富んでいる。

 その女性たちの絵付け作業を見学しながら、篠原さんにお話をうかがう。

「江戸にガラス工芸が伝わったのは、江戸時代の中期といわれています。長崎のビードロ師が江戸で実演したのがきっかけで……それで江戸時代の末期には、江戸中にガラス風鈴が普及したのです」このガラス風鈴を『江戸風鈴』と呼ぶようになったのは、時代は下って昭和初期。命名者は篠原風鈴本舗二代目、篠原儀治さん(もちろん、裕さんの父親)だという。

「うちの工房も、最初は台東区の入谷ではじめたそうです。戦後に墨田区に移り、東京オリンピックの年(1964年)にこちらに越してきた。ちょうどガラス工芸が下火になってきた頃ですね。昭和30年頃には7〜8件あった風鈴工房も、いまではここだけですから」

 衰退の原因はいろいろあるが、冒頭で述べたことの他に、輸入品の流入によるダメージが大きかったという。「例えば以前、浅草のほおずき市で売られるガラス風鈴は100%うちが手がけていました。それが今では90%程度が外国製ですから」そういう輸入品は台湾などのアジア諸地域でつくられているというが、低賃金に支えられた安価な製品には太刀打ちできなかったという。

「こういう分野では、国の保護を頼ることができませんから……。競争で淘汰されていくのはやむを得ないですね」



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・絵付けはガラスの内側から











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・塗料は顔料。日本画の画材に近い
月刊特集「ひんやり熱いガラスの話」

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