●クリヤ・マコト
ミュージシャンたちの肖像
          −2
恐怖のレッドネック

        --その2--

1980年頃のことだが、ぼくは既に親友のケヴィン・フライソンとジャズバンドを、靴屋のアルとファンクバンドをやっていた。そのうちにケヴィンがどこかで二人の南部人と知り合い、新たにスティーリー・ダンのようなバンドをやることになった。 二人の南部人はイタリア人のマイクというドラマーとムラート(白人とインディオの混血)のジムというヴォーカリストで、それに黒人のケヴィンと日本人のぼくだから、まさに人種混合バンドだった。活動が始まるとぼくらはケンタッキー、シンシナチからノースカロライナあたりまでリハーサルやギグに出かけるようになった。


・STEELY DAN/GAUCHO(1980)
 懐かしのロックバンド。 この時期は
 きわめつけに豪華なメンツで録音していた。

 南への旅の途中ぼくらは時々、白い三角帽子の覆面をしたKKK(クー・クラックス ・クラン)の一団を見かけた。牧場が連なり湖畔でガチョウが散歩をしているような、 美しい山間の道をドライブしていると、ふと橋のたもとのような所に白昼公然と10人ほどのKKK団員が並んでおり、プラカードを掲げてビラを配っているのだ。そんな時はいつもゾッとして気が昂ぶり、目を合わせないようにそそくさと車で通り過ぎるので 、実際プラカードに書かれていたメッセージさえ記憶にない。
 マイノリティー・バンドであるぼくらは、ホテルのギグなどでは裏から入らされたり 、食事があたるのも一番最後ということが多かった。こんな場合ぼくらはよく厨房に入っていき、そこで働く黒人連中と仲良くなった。彼らの愚痴を聞いてやり、同情し、相づちを打ってすっかり打ち解けると、彼らはよく1ヵ月も食べられるほどのパンやらジ ャガイモやら大きな肉の塊やら、様々な食器類やらを気前良くくれたものだ。灰皿やトイレット・ペーパーなどはそんな風に調達するのが当然のようになっていた。白人低所得者層でももちろん皆がみな人種差別主義者というわけではない。ぼくはブルーカラーの白人たちにもずいぶん助けられたし、育ちのいい中流白人の友人もたくさんいた。

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 Text :
Makoto Kuriya


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