MIKAの部屋 番外編(2)
  作品論、または失われた境界線について

文/中山慶太  写真/蜷川実花

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 

 

Photo
--->拡大表示

 

しも自分が、他人の眼を通してものを見れたら、色もカタチも、世界の様子はずっと違うかもしれない。
 子供のころ、こんなことを考えたひとはけっこう多いんじゃないだろうか。
 たとえば、自分が青と認識している空は、他人にとっては赤かもしれない。そんな子供の空想は、信号機で挫折した。暖色には動の、そして寒色には静の、文字どおり動かしがたいイメージがある。青色に危険を感じるひとはあまりいないだろう。
 心にわだかまりが残らなかったわけではない。この眼に映る世界が誰にでも同じように見えるなんて、どうして信じられるだろう。
 心のなかの疑念の固まりが、ほんのすこし溶けはじめたのは、自分で写真を撮るようになってからのことだ。一眼レフの交換レンズは画角しだいで遠近感が変わり、もののカタチも微妙に変化することを教えてくれたし、ファインダーは人間が凝視できないボケの美しさを見せてくれた。
 でも、と思う。それは物理の法則にしたがっているだけのこと、ガラスや機械の助けを借りて世界を眺めているに過ぎない。知りたいのは、もっと別の次元のことではなかったか。
 そんなことをぼんやりと考え、もう忘れかけた時に、蜷川実花の写真に出会った。
 彼女の世界は熱を帯びたような色彩と遠近感に支配され、見ていると溶け出してくるような錯覚を覚えた。
 もっともそう感じたのは最初のころのことで、このごろはもっと別の印象があるのだけど。
 熱を帯びているように思えたのは、きっとあの色づかいに惑わされてのことだ。彼女の写真でエンハンスされた赤や青などの原色は、僕たちの常識にない温度感で写真のなかにただよっている。彼女の世界では、信号が青でも危険かもしれない。楽園のぬるい空気に気持ちよくひたっていると、全身が低温火傷でやられるかもしれない。油断していると、彼女はレンズの最短距離を越えてせまってくるかもしれない。
 ちょっとした縁があって、青山の喫茶店で蜷川実花に会うことができた。原色のTシャツを着た彼女は、セルフ(・ポートレート)で見るよりもずっと華奢で、はにかみ屋で、そして素直に見えた。
 それでも彼女が持参した作品は、十代の女の子たちから圧倒的な支持を受けるいっぽうで、僕のような中途半端なオジサンにもあきらめ切れない謎の部分を持っていた。
 きっとそれは、演出と無作為の彼岸なのだ。その危ういバランスが、蜷川実花というひとの視線なのだ。
 でも最近は、彼女じしんも色彩について論じられることに厭きてきているように見える。だから僕も、もうすこしこのコーナーを続けて、疑問が溶けるのを待つことにしよう。グラスのなかの氷は、溶けてもあふれ出す心配はないはずだ。
 それとも、彼女は僕の油断につけこむだろうか。
 


       <---Back   ... Go to the next.  

 


Webmaster :
ammo@tokyo.fujifilm.co.jp
Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部