マカロニアンモナイト
webマガジン「マカロニ・アンモナイト」月刊特集
和−Time Rhythm
〜和時計の暮らし〜 後編
文・写真/しばやまみゆき  Flash時計/Rey.Hori
後編目次 6 7 8 9 2002年12月掲載


§和時計誕生§

 モノマネ+創意工夫を得意とする日本人のDNAは和時計にも発揮され、まず舶来の時計を修理しながら、ほどなくそのからくりを真似て時計も作り始め、さらに不定時法に適合するよう工夫を重ねていった。

 1832年に編纂された『尾張志』の中に「徳川家康が朝鮮から献上された自鳴盤(とけい)が破損し、京都の鍛冶職人、津田助左衛門が修理に成功し、さらに同じ時計を作って献上した。これによって1598年にお抱え時計師となって、尾張に移り住んだ。彼が日本時計師の元祖だ。」と記されている。
 1630年にはキリスト教関係の洋書の輸入が禁止され、1639〜1854年まで鎖国政策がとられ、この日本独自の技術は開花する。

 小さなネジ釘一つから手作りしなくてはならなかった時代に、時計のムーブメント製作の技術を支えたのは、平和な時代になって仕事が減っていた鉄砲鍛冶達だった。




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今もちゃんと動いている櫓時計
(大名時計博物館所蔵)

§不定時調節の仕組み§

 一定時間で動く時計を不定時法に合わせるには二つの方法がある。運転を一定にしたまま文字盤の目盛りを変える方法と、運転速度そのものを変える方法だ。

【作戦1:文字盤の掛け替え】

 季節毎の時刻を刻んだ節板を用意して、24節毎に掛け替える。
 24節気というのは太陽の軌道に合わせて1年を24等分したもので、日本では春分を基点に「立冬」「冬至」などで季節の変化をあらわし、特に農作業の目安とされてきた。
 節板は24枚ではなく「夏至」と「冬至」、それ以外の季節は昼夜の目盛りの似たものを兼用して全部で13枚。枚数が多いと紛失しやすいため、板の表裏に目盛りを記した7枚のものもある。

 それにしても15日ごとに掛け替えるのって忘れそうではない...?
 もっと便利に、節板13枚の目盛りを1枚板に結合させたものも考案された。年中時刻の波形グラフなので、『波板式文字盤』とも呼ばれた。今がどこにあたるのか、慣れないとちょっと読めなさそうだ。


【作戦2:機械の運転速度を変更する】

[1]天符で運転速度を変える

 重りを動力に動く時計の棒天符の左右にある分銅の位置を変えて運転速度を変える。分銅の位置が遠いと遅く、近づければ早くなる。これをなんと毎日「明六ツ(あけむつ)」「暮六ツ(くれむつ)」2回に行わなければならないのだから大変だ。
 この手間を省くために工夫されたのが『二挺天符』という和時計独特の仕組みで、昼用夜用の2本の棒天符を取付け、「明六ツ(あけむつ)」「暮六ツ(くれむつ)」に自動的に切り替わるようにした。これなら文字盤変更方式と同じく、24節毎に分銅の位置を移動させればよい。

[2]割駒式文字盤で目盛幅を変える

 江戸も後期になると、調速機として『振り子』や『ひげゼンマイ付円天符』が登場するが、機械の運動速度を変えることは難しくなる。
 そこで時を表す12の小さな駒板をレール装置に配して、左右に移動して時刻の間隔を変更する「割駒式文字盤」が考案された。これにしても24節毎に文字盤を移動させる必要はある。この手間を自動化したものも作られるなど、当時の時計師たちの知恵と技術は素晴らしいものだった。

 当時のハイテク技術の贅沢品として『大名時計』とも呼ばれる『和時計』は作るにも、きちんと動かすにも、とにかく手が掛かる。もちろん専門の時計係が必要だ。
『御役人武鑑』によると、1799年の江戸城には、御土圭役御坊主7名、御土圭間御坊主26名、御時計師広田利衛門等がいた。これが1862年になると、御土圭役御坊主13名、御土圭間肝煎御坊主10名、御土圭間御坊主58名、御時計師広田利衛門、というように時計係が増えている。

 時計が増えたのだろうけれど、全部一斉にちゃんと鳴っていたのだろうか?

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思いの外大きな時報にびっくり
暮六ツにはちゃーんと上下の棒天符が交代する
(大名時計博物館所蔵)






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櫓時計のムーブメントは、ずっと見ていても飽きない。
(大名時計博物館所蔵)






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文字盤掛け替え式の尺時計
(写真提供:セイコー時計資料館)

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