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マカロニアンモナイト
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国際宇宙ステーションを見てみよう

文/松浦晋也 

【目次】12|【】|4 2009年2月掲載
3.国際宇宙ステーション(ISS)の
  歴史を押さえておこう

ISS計画の発端シャトルの事故と冷戦終結ロシアの参加さらなる規模縮小



2000年9月に、スペースシャトルから撮影された国際宇宙ステーション。手前から、プログレス補給船、第3のモジュール「ズヴェズダ(星)」最初のロシア製モジュール「ザーリャ(夜明け)」、最初のアメリカ製モジュール「ユニティ」。(Photo by NASA)



ISSの歴史を押さえておこう

 ISS計画の発端は今から27年前の1982年に遡ることができる。1960年代にアポロ計画で人間を月に送り込むことに成功したアメリカは、1970年代、新しい宇宙輸送システムであるスペースシャトルを開発した。1981年4月12日、最初のスペースシャトル打ち上げが行われ、シャトルの運行が始まった。
 スペースシャトルは、地上と宇宙とを、それこそバトミントンの羽根(シャトル)のように往復する輸送手段だ。
 地球を回る軌道上に常に存在し、スペースシャトルで様々な荷物や人員を運び、新たな実験や探査を行う場所──宇宙ステーションがアメリカの次の大型計画となったのである。



●1985年の段階におけるステーション案の一つ。(Illustration by NASA)

塔のようなトラスに太陽電池パドルを取り付けており、「パワータワー」という名称で呼ばれていた。




 しかし、この宇宙ステーション計画に、当時の国際状況が大きな影響を及ぼすこととなる。1981年当時、世界はアメリカとソビエト連邦の2強が世界を東西に分割し、対立する冷戦の真っ最中だった。アメリカ政府は、宇宙ステーションを自らの西側陣営の結束を誇示する政治的手段として利用しようとした。西側各国が共同で宇宙ステーションを建設し、そこに各国の宇宙飛行士が集まって結束をアピールしようとしたのである。
 日本や西欧諸国に対し、最初にアメリカから計画参加の打診があったのは1982年のことだった。当時の日本は、アメリカのレーガン大統領と「ロン・ヤス」と気軽に呼び合えるほどの強いコネクションを誇る、中曽根康弘総理大臣の時代だった。このこともあって、日本はアメリカが打ち出した宇宙ステーション計画に深く関与することとなった。
 1984年、レーガン大統領は年頭教書で「今後10年以内に国際協力で宇宙ステーションを建設する」と宣言した。完成目標時期はコロンブスのアメリカ大陸到達500周年の1992年と設定された。
 1985年には、欧州宇宙機関(ESA)、日本、カナダが計画参加を正式に決定した。



●1988年頃のISSの構想。(Illustration by NASA)

この段階では、International Space Stationという名前は付けられておらず、「Space Station “Freedom”(宇宙ステーション“自由”)」といういかにも冷戦時代のアメリカらしい名前だった。
図左上が、完成予想図。トラスの中央部にアメリカのモジュール2棟と日本と欧州のモジュールがそれぞれ1棟取り付けられている。
図右下は、完成後のステーションを更に規模拡大する案。宇宙作業の足場となるトラスを増築している。トラスの左右先端には太陽電池パドルよりも出力が大きい太陽熱発電機を増設する。完成後のステーション図の傍に書かれているスペースシャトルと比べると、その大きさが分かる。




●1988年、「フリーダム」と呼ばれていた頃のISSの完成想像図。(Illustration by NASA)

4つのモジュールのうち、右下が、日本モジュール。現在の「きぼう」である。アメリカも欧州もこの後、何度となく設計変更を繰り返したが、日本だけはほぼこの時点の設計を愚直なまでに貫いて現在の「きぼう」を完成させた。



 計画は一気に動き出すかに見えた。が、1986年1月28日、スペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げ直後に爆発するという大事故が起きた。
 宇宙ステーションの建設には、スペースシャトルが不可欠だ。そのスペースシャトルが事故を起こし、運行停止となってしまったのである。
 しかも皮肉なことに、アメリカ政府が狙っていた宇宙ステーションの政治的意味は失われようとしていた。1986年10月、レーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長はアイスランドのレイキャビクで歴史的な会談を持った。
 このレイキャビク会談がきっかけとなって、冷戦は終結に向かうこととなる。もう、「宇宙飛行士が宇宙で西側の結束を全世界にアピールする」必要はなくなったのだ。

 しかし計画は止まらず、迷走が始まった。

 このあたりの事情を、年表で書くと以下のようになる。

  • 1988年:設計案がまとまる。しかし、大幅な重量超過と建設には過重なまでの宇宙飛行士の船外活動が必要なことも発覚。
  • 1989年:最初の規模縮小。様々な技術開発要素が切り捨てられる。
  • 1991年春:2度目の規模縮小。常時8人の宇宙飛行士が滞在する予定が、4人にまで減らされる。
  • 1991年5月:計画の迷走に愛想を尽かした米下院議会が「宇宙ステーション計画の中止」を可決。国際協力体制が動き出していた計画であっても議会が中止を議決してしまうあたりが、いかにもアメリカである。NASAは参加各国代表を動員した必死の議会工作を展開して、上院での可決を阻止して計画中止を回避した。
  • 1991年12月:ソ連が崩壊してロシア以下のいくつもの国に分裂。対ソ戦略の一環としての宇宙ステーションの意味は完全に失われた。

 1993年、アメリカの大統領が代わった。ブッシュ前大統領(共和党)に代わってホワイトハウスに入ったクリントン新大統領(民主党)は、財政再建策の一環として宇宙ステーション計画の大幅縮小を指示した。設計案はゼロから検討し直しとなり、計画は大混乱に陥った。
 そのさなか、NASAは起死回生のウルトラCを打ち出した。それまで敵だったロシアを計画に引き込んだのだ。ロシアは旧ソ連時代から、独自の宇宙ステーション「ミール」を運用し、同時に次世代のステーション「ミール2」を設計していた。「ミール2」開発は、ソ連崩壊後の資金難で中断していたが、NASAはロシアに声をかけて、それまでのステーション設計案と「ミール2」を強引に合体させ、規模の縮小を防いだ。強引なステーションの合体には、ロシアに資金を流すことで、旧ソ連の宇宙技術が第三国に拡散することを防ぐという政治的意図も込められていた。




 ロシアをISS計画に引き込んだアメリカは、それだけではなくロシアの「ミール」宇宙ステーションを、ISSでの宇宙飛行士長期宇宙滞在のための練習の場として使用した。かくして冷戦時代ならばあり得なかった、ミールとスペースシャトルとのドッキングが実現することとなった。写真は1995年6月に、スペースシャトルが初めてミールにドッキングした時のもの。(Credit: Nikolai Budarin, Russian Space Research Institute, NASA)

関連リンク→JAXAサイト<ミール宇宙ステーション>




 前に述べた軌道傾斜角28.5°から51.6°への変更は、この時に行われた。28.5°の軌道はロシアが使うバイコヌール基地からの打ち上げには向いていなかったのだ。ケネディ宇宙センターとバイコヌール基地のどちらからも比較的打ち上げやすい軌道ということで、51.6°の軌道が選定された。

 かくして現在の国際宇宙ステーションの枠組みが固まった。



 ISSの建設はロシアとアメリカのモジュールを軌道上で結合することから始まった。写真に写っているのは最初のロシア製モジュール「ザーリャ(夜明け)」(左)と最初のアメリカ製モジュール「ユニティ」(右)。1998年11月20日にまずバイコヌール宇宙基地から「ザーリャ」が、次いで1998年12月4日に「ユニティ」を搭載したスペースシャトル「エンデバー」が打ち上げられ、、軌道上で2つのモジュールが接合された。
 しかし、人間が長期間居住するための設備を備えた第3のモジュール「ズヴェズダ(星)」は、ロシアの経済難のために打ち上げが1年以上遅れ、その間「ザーリャ」と「ユニティ」は無人のまま空しく軌道周回を重ねねばならなかった。結局「ズヴェズダ」は2000年7月12日に打ち上げられて「ザーリャ」とドッキング。同年11月から宇宙飛行士の長期宇宙滞在が始まった。(Photo by NASA)

関連リンク→JAXAサイトISS関連用語集:ザーリャユニティズヴェズダ




 だが、1998年に建設作業が始まってからも、計画は波乱の連続だった。

 建設初期には経済危機が原因で、有人運用に不可欠のロシアのモジュールが打ち上げられず、スケジュールが1年以上にわたり遅延した。その後、ようやく順調に計画が進み始めた2003年2月1日には、スペースシャトル「コロンビア」が宇宙からの帰還途中で空中分解する大事故が発生。またも計画は停滞し、ステーションのさらなる規模縮小が行われることになったのだ。



●コロンビア空中分解事故が起きた段階のISSの状態。2002年12月撮影。(Photo by NASA)

 上下逆に見えるが、もちろん宇宙空間には上と下の区別は存在しない。最初に宇宙空間に運ばれた太陽電池パドルが現在とは異なる位置に付いている。ISSの組み立ては、「あっちに付けたものをこっちに付けかえて」というパズルのような部品移動の連続である。各部位の付けかえに使うカナダ製のロボットアームが写真中央左に写っている。
 コロンビア事故の時、ISSには6番目の長期滞在クルー「エクスペディション6」(リンク先JAXAサイトISSクルー)の3人が搭乗していた。しばらくスペースシャトルが使えず、ISSへ運べる食料や水などの物資が減ったため、2003年4月の「エクスペディション7」から2005年9月の「エクスペディション12」までは、1チーム3人から2人に減らされた。ちなみに各「エクスペディション」は標準で6ヶ月をISSで過ごし、ISS建設や宇宙実験などの作業に従事する。2009年2月現在、「エクスペディション18」がISSに滞在している。



 このコロンビアの事故によって、スペースシャトルの運行回数が削減され、いくつかのモジュールが開発中止となった。日本でも、アメリカに「きぼう」打ち上げの対価として物納する予定で開発していた、生命科学を実験するためのモジュール「セントリフュージ」の開発が中止された。

関連リンク→JAXAサイトISS関連用語集:セントリフュージ


 2005年7月、スペースシャトルの運航が2年半ぶりに再開した。しかし、この時の打ち上げでは、コロンビア墜落の原因となった推進剤タンクからの断熱材剥離が再度発生。打ち上げは、またも1年間停止した。
 その後、NASAは、スペースシャトルの打ち上げを2006年と2007年が3回、2008年には4回実施した。すべてISS建設関連の飛行である。

 2009年現在、国際宇宙ステーションは当初の計画とはまったく異なる形で2010
年に完成する予定となっている。1992年の当初予定からは18年遅れでということになる。NASAは2009年に6回、シャトル引退の年である2010年に3回の飛行を行うとしている。この予定がきっちり消化できるかどうかで、ISSが2010年に完成するかどうかが決まる。




 コロンビア空中分解事故前の完成予想図(左:Illustration by NASA)と、事故後の完成予想図(右:Illustration by JAXA)。事故の結果、スペースシャトルの運行回数が削減され、いくつかのモジュールが開発中止になった。



 当然ここまで来るのにかかった経費も半端なものではなくなっている。アメリカは、計画終了までに全部で1540億ドル(1ドル100円とすれば、15兆4000億円)をISSに投じることにしている。
 日本もこれまでに6000億円あまりを使い、最終的には運用経費を含めて総額1兆円を投資する見込みだ。1年当たりで考えると300億円ほどなので、国の事業としてはさほど大きなものではないが、それでもかなりクラクラする額ではある。

 このように、これからあなたが見ようとしているISSは、過去30年近くに渡って、技術的問題と政治状況に翻弄され、大幅な計画変更と遅延の末にやっと完成しつつある人類の一大モニュメントなのである。

関連リンク→JAXAサイト<国際宇宙ステーション(ISS)計画の歩み>






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マカロニアンモナイト特集「国際宇宙ステーションを見てみよう」
【目次】12|【】|4 2009年2月掲載
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