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* 週刊フォトエッセイ*

週休六日のススメ

  文・写真/福山庸治 --->Back Number 




211 絵が上手いマンガ家の苦悩(1)

 僕はいつ頃からか、自分が思っている「自分」よりは、他人に映っている「自分」のほうが、実像としての「自分」に近いのだろうと考えるようになった。
 たとえば、「私、ヘンな人だから」と、自分のことを変わった人間のように言う人に、ほとんどヘンな人はいなくて、そこら中にありふれた普通の人だったりすることは往々にしてあることだ。当然、その逆もあって、本人だけが普通の人間だと思っているヘンな人もいる。

 人には多かれ少なかれ、理想自我というのか、かくありたい「自分」、このように見せたい、見て欲しい「自分」というものがある。当然ながら、自意識の強い人ほど、その傾向は強い。しかし、希望はあくまで希望に過ぎず、いくら努力しても、他人は本人の希望するようには見てくれないことが多い。

 ここだけの話だが、僕のつれあいは、バストが大変立派である。
 僕は彼女と初めて会ったとき、その細くて華奢な体に不釣り合いとも思える、大きく開いた襟元からのぞく豊満なバストに強い印象を受けた。そのせいか、彼女の顔に対する印象が相対的に薄まってしまったことは否めないが、いくら何でも、忘れてしまうということはなかった。
 だが、次に会う機会が巡ってきたときに、思わず「あれっ? こんな顔だったっけ?」と言ってしまった。つれあいは当然ながら「どうせ胸しか覚えていない失礼なヤツ」と思った。

 確かに、立派なバストのことは覚えていた。しかし、考えて欲しい、バストには目も鼻も口も付いてないのだ。「立派な」という形容詞一つあれば、簡単にそのイメージを記憶することができる。それに反して、顔の場合は、ただでさえ複雑な部品が付いている上に、時々刻々くるくると表情を変えるのだから、たいてい二度目に会うときは、初回の印象とはかなり違って見えるものなのである。「あれっ? こんな顔?」と思うのは当然中の当然なのである。そうした記憶の曖昧さから発した言葉だったが、しかし、バストを克明に覚えていたことも確かで、所詮言い訳に過ぎないことは百も承知である。


2004年02月04日掲載

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