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* 週刊フォトエッセイ*

週休六日のススメ

  文・写真/福山庸治 --->Back Number 




285 サン・マロへの旅(11)

 サイン会の席には、このあと三度ディナーをご一緒することになるパリ在住バン・デシネ作家の(名前を失念)氏が、既にプロが使う数種類のドローイング用のペンを傍らに、巧みな筆さばきで自著の本にサインを描いておられる。サインといっても、著者の名前だけではない。キャラクターの絵がたっぷり丁寧に時間を掛けて添えられていく。その様子を見た瞬間、僕はこの場を逃げ出したくなった。

 とはいえ、逃げるわけにはいかない。
 気を取り直して、最初のサインに立ち向かうことにしたのだが、あろうことか、僕の机の上のどこにもサインペンが無いのである。サインペンは主催者のほうで用意してあるものとてっきり思い込んでいた僕は、当然ながら何も持っていない。この“当然ながら”というのが、実はフランスではちっとも当然ではないことを、僕は帰国後のFMラジオで偶然知ることになるのだが、この時はそんなこととは夢にも思わない。結局、ブースにいるスタッフの一人がどこかからか一本借りてきて、僕に渡してくれたのだが、それはいわゆる学校の生徒が使うような普通のフェルトペンである。お隣さんが使っているようなプロ用の画材とは雲泥の差だ。もちろん文句を付けるわけにはいかない。出るは冷や汗ばかりである。

 ええい、ままよ、弘法筆を選ばずが僕のモットー、なんとでもなるさと、とにかく最初のお客さんから、仏語版「臥夢螺館1」を受け取り、ページを開いて、女性キャラクターの横顔を描き始めた。が、下描きなしで描くことの難しさは半端ではない。まるで闇夜の原っぱを駆け足で駆け抜ける感じに似ている。この白紙のどこかに描こうとしている絵の正解に至る線が隠されているはずだが、それを探しながら、一度も間違えることなくペンを進めていかなければならないのである。こんな神懸かりなことを、今日を含めこれから何日もやるのかと思うと、僕の血の気は、丁度このサン・マロの海のように、どこまでも引いていくのだった。


2005年08月24日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部