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* 週刊フォトエッセイ*

週休六日のススメ

  文・写真/福山庸治 --->Back Number 




286 サン・マロへの旅(12)

 ある日本人の料理人がフランスへ料理修行へ行き、あるレストランに雇われた。初出勤の日、彼が自前の包丁を持参して厨房に入ったところ、コック用の服が用意されていないことに気がついた。彼が「自分用の服は?」と尋ねると、「君は自分の服を持っていないのか?」と逆に問い返され、日本では当たり前のように支給されるコック用の服が、フランスではそうではなく、自分で用意するということを知ったという。そこで彼は急遽服を誂えたわけだが、シェフより上等なものになってしまった。一応「君は金持ちだなあ」みたいな軽い嫌みを言われたらしいが、それ以上のことはなく、そういうことが問題になることはないのだそうだ。

 この話を、僕は帰国後のFMラジオで聴いた。つまり、サイン会用のペンは、自分にとって一番描きやすいものを持参するのがフランスでの常識であることに、このFM放送を聴いて、やっと気が付いたのである。さすが、革命を起こして王の首を取った国の人々、一事が万事で、すべからく自律的であろうとすることが、この小さなエピソードにもよく表れていると僕は感心したのだった。

 とりあえず、自分的には失敗作だったものを含め、曲がりなりに2時間のサイン会をこなしたあと、オノレさんと僕ら夫婦の三人は、明日以降使うサインペンの調達がてら、城壁に囲まれた中世そのままの町を散策することにした。中世そのままと言っても、もちろん外観だけだ。ここは観光地であるが、廃墟ではない。今も普通に人が住んでいて、土産物屋やレストランなどを営んでいる。なので、一階部分の店の中は普通に近代的なのである。

 その昔、衛兵が見回りのために歩いたであろう海に面した城壁の回廊を歩きながら、ここにはまったくアジア、とりわけ日本の要素などまるっきりない場所だということを僕は強く感じていた。どこを切り取ってもヨーロッパなのである。混じりっ気のない完璧な異文化としてのヨーロッパがそこにあるという感覚。そこに今、僕ら日本人が東の果てからわざわざやってきて、この地の大気を呼吸しているという奇妙な非現実感。ここを初めて訪れた日本人は誰だったのだろう、それはいつ頃のことだったのだろう、などと遙か悠久の昔に思いを馳せるに申し分のない圧倒的な存在感をこの町は放っている。


2005年08月31日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部