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* 週刊フォトエッセイ*

週休六日のススメ

  文・写真/福山庸治 --->Back Number 




341 離れを建てる(26)

 どんどん話が脱線するが、実は僕は蕎麦の味というものがよくわからない。蕎麦をうどんと間違えるということはないが、蕎麦固有の味がどんなものなのかが僕の中では実に曖昧なのだ。しかも、出汁やネギやワサビの味も加味されているから余計に不明瞭である。まして天麩羅やとろろを添えると、蕎麦の味は更に正体がぼやけてくる。ただ、ぼやけてはいても蕎麦はやっぱり蕎麦の味がしている。そう、蕎麦を食べているときは、確かにこれは蕎麦以外の何物でもないと思うのである。ところが、あとでいざ蕎麦の味を思い出そうとしてもなかなか思い出せないのである。現にこの一文を書いている今も、必死に思い出そうとしているのだが、やっぱり思い出せないでいる。こんな食べ物を僕は他に知らない。僕に言わせると、蕎麦とは幽霊のような、あるいは座敷わらしのような味なのだ。

 カレーライスだと、もちろんそんなことはあり得ない。強い味だから、いつでもどこでも即座に舌先に記憶が蘇る。逆に言うと、カレーと一緒に食べると、どんな食材もすべてカレーの味になってしまうことはご存じの通り。こしひかりもひと目惚れも、カレー味の強いごはんになる。実に強い味である。だが、その中でももちろんちゃんとごはんの味はする。そう、ぷーんと香るあの味である。その点はカレー蕎麦も同様である。あの強いカレー味の中だと消されて無くなってしまうかと思われる蕎麦の味も、なぜか決してなくなるわけではない。確かに蕎麦の味がする。だが、食べた後、ごはんの味はありありと思い出せても、蕎麦の味は思い出せないのである。味がするのに思い出せない味、実に不思議な食べ物であるが、そう思うのは僕の味蕾が単に鈍いだけなのかもしれない。

 蕎麦は(僕にとってだけかもしれないが)かくも不思議な食べ物であるがゆえに、石臼を弾くところから始めたいと思う気持ちも分からぬではないが、僕が蕎麦打ちでもしようかと思ったのはまた別で、定年退職後の生き甲斐を見つけるためといった理由でも何でもない。あまりにも離れの土間がタイルを張ったら小綺麗になりすぎたので、当面蕎麦を打つ時に粉が飛び散るくらいの汚れしか許容できないと思ったからである。



※「離れを建てる」を第1回から読みたい方は、こちら


2006年10月18日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部