* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


写真
---> 拡大表示

夏休みを終え、再登場の麻理子ちゃん。今回は彼女のお散歩コースで撮影した。背景は神田神社(通称神田明神)の社殿。フレクサレットシリーズの撮影レンズは色ノリが良く、ボケもこのようにたいへん素直だ。ただし80mmの被写界深度はかなり浅いので、スナップ的に撮る場合はもっと絞り込んだ方が安全。
Meopta Flexaret VI + Belar 80mmF3.5 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/100sec. F=5.6



写真
---> 拡大表示

湯島聖堂にて、シリーズ4で撮影。ここには孔子が“学問の神様”として祀られており、造りもどこか中国風。それに合わせて麻理子ちゃんもチャイナ風のいでたちで登場、さすがのロコでありました。二眼レフとしては小柄なフレクサレットも、小顔の麻理子ちゃんが持つとデカく見える。
Meopta Flexaret IV + Belar 80mmF3.5 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/50sec. F5.6



写真
---> 拡大表示

●今週のお題:
『フレクサレット二眼レフ』
フレクサレットIVは1950年から57年にかけて製造された。8年という生産期間はシリーズ中もっとも長く、おそらく生産台数もいちばん多いはず。フレクサレットのトレードマークである焦点調節レヴァー(撮影レンズの右に見える)はこの機種から大型の振り子型となり、素早いピント調節と被写界深度の確認を可能にした。ビューレンズの隣に突き出したレヴァーはレリーズで、押し下げるように操作する。フィルム巻き上げとシャッターチャージは非連動(これは後継機のV型まで続く)で、僕も撮影中によくチャージを忘れる。
FUJI FinePix S1 Pro + Micro-Nikkor 105mmF2.8 Exposure Data:1/10sec. F=8

 モラヴィアの残照、フレクサレット #3

 今週も「受験に出ないチェコカメラの歴史」を続けよう。

 時代は下り、二十世紀初頭にオーストリア=ハンガリー帝国が瓦解すると、チェコは南東のスロヴァキア地方と合体して独立国家となる。1918年から38年にかけて続いたチェコスロヴァキア共和国(第一共和国)はチェコの民衆にとって事実上、初の独立国家と呼べるものだった。
 この時期のチェコ経済はかなり好調であったようで、近代的な機械工業の発展を背景に光学機器メーカーも誕生した。フレクサレットの製造元であるメオプタ社の前身、『オプティコテクナ optikotechna 社』もそのひとつで、1933年にチェコ南東のモラヴィア地方プジェロフ prerov 市に創設されている。創立当時、同社は写真用の引き伸ばし機を製造しており、数年後にはムーヴィーカメラやスライド・プロジェクター、そしてスチールカメラが加わる。
 ちなみに今回のテーマである二眼レフカメラ、フレクサレットの系列は同社が1939年に発売した『フレクセッテ flexette』等がルーツ*と考えられる。それはさらに十年前に隣国ドイツで開発された写真機の模倣であったけれど、このあたりの事情はもうすこし先で書くとして、話を進めよう。
 フレクサレッテが発売されたその前年、チェコスロヴァキアの民はふたたび独立を失う。独裁者ヒトラーが率いるナチス・ドイツ第三帝国の圧力に屈し、国土は保護領という名で占領され、国民はふたたび隷属を余儀なくされたのだ。

 さて、メオプタ社の社史をひもとくと「オプティコテクナは1939年よりドイツ軍向けの光学機器生産を開始した」とある。それらの製品---双眼鏡、射撃照準機、潜望鏡、測距儀など---は近代戦に欠かせない精密機械であり、勝敗を左右する兵器でもあった。
 当時この分野で世界の最先端をいっていたのは間違いなくドイツで、これは国内に優秀なカメラメーカーが揃っていたことによる。この頃の日本も研究者を派遣したり、また高名な光学の権威を招聘するなどして技術導入を図っている。
 その光学技術の総本山たるドイツからの生産移管は、チェコの工業の高水準を証明するエピソードであった。が、もちろんおめでたい話ではない。ようやく開発したメイド・イン・チェコスロヴァキアのカメラを押し退け、生産ラインを流れるのは、侵略者のための戦争の道具なのだ。チェコの人たちの心境はさぞや、である。
 そもそもドイツがチェコスロヴァキアを支配した背景には、その工業力を利用する目的があったという。光学工場の接収など、おそらく周到に練られたシナリオの一部だったのだろう。このあたり、メオプタ社の社史は起きた事柄だけを淡々と記載しているが、次のような一文も添えている。
「1939年、オプティコテクナの社名は“ヘルマン・ゲーリング光学工場”に変わった**」

●作例モデル:脊山麻理子
※好評のプチ連載『マリコのフォトダイアリー』は次号より再開します。

*注1)メオプタ社がWebサイトで公表している資料によれば、戦前の同社はフレクセッテ以外にも二機種の二眼レフを生産していた。オプティフレックス、オートフレックスと名付けられたこれらのカメラはどうやら富裕な層を狙った高級機で、フレクセッテはその廉価版、大衆機と位置付けられていたようだ。 なおこれ以前のカメラとして“カマラディ(Kamaradi)”という機種も存在するようだが、詳細は未確認。

**注2)ヘルマン・ゲーリングはナチス・ドイツの軍人。ヒットラーに継ぐ地位の政治家としても活躍、ドイツの軍備拡大を推進し、空軍を指揮した。第二次大戦終結後に戦犯となり、処刑を前に自決している。


2002年09月18日掲載

<--Back     Next-->




Webmaster :
ammo@tokyo.fujifilm.co.jp
Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部