* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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ちょっとハイキーに撮る。古典レンズでは露出を多めに与えるとピントが崩れ気味になる(見かけ上の解像感をコントラストで作っているのだろう)ものが多いけど、ビオターはこういう条件でも良い仕事をする。ツァイス製品としてはゾナーやプラナーの陰に隠れた存在だが、流石はメルテ博士設計の傑作レンズ。
Zeiss Ikon Pentacon + Carl Zeiss Jena Biotar 58mmF2 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/50sec. F=3.5



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M42マウントのレンズは文字通り玉石混淆だが、埋もれた銘玉も数多く存在する。今回の「お題」関連物品ではこのSMCタクマーもそのひとつ。東独製品が及ばぬ精緻なつくりも魅力だ。ちなみに角形フードフェチの僕は、このレンズの素敵なフードに一目惚れしてしまった。さいきんはライカのXOONSフードが欲しくてズマリット50mmを物色している(こういうのを本末転倒というのである)。
FUJICA ST605 + Pentax SMC Takumar 28mmF3.5 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/30sec. F=4



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●今週のお題:
『ペンタコン(コンタックスD)+M42レンズ』
戦前のRFコンタックス(をソ連で製造、基本はそのまま小改良した『キエフ4』)とペンタコン/コンタックスD、そしてM型ライカを比較する。M型ライカのボディは両コンタックスとほとんど同一サイズ。ライカM3は1954年の発売だから、先行するコンタックスRF・SLRを意識しなかったといえば嘘だろう。この3機種はそれぞれ現代のカメラに引き継がれる機構を持つが、いちばん地味なのがライカだといったら石が飛んでくるだろうか。こうして並べるとペンタコンのミラーボックスは“後付け”のようにも見える(ただしボディの重量はもっとも軽い)。
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:2sec. F=16

 ペンタプリズムの革命 #4

 世界で初めてペンタプリズムを内蔵した一眼レフの開発は、1938年にドレスデンのツァイス・イコン社内部でスタートする。ヴィルヘルム・ヴィンツェンブルク技師が指揮したこのプロジェクトには、『シンタックス』という社内コードネームが冠される。言語学の“規範”を意味する語(syntax=現代のデジタル技術でもプログラム言語の規範を指す)を充てたネーミングだが、これには“次世代カメラの原器”という開発目標も込められているように思える。
 戦争による遅れがあったとはいえ、シンタックス・プロジェクトの内容は理想主義で名高いツァイス・イコンの実力がフルに発揮されたものだった。後年に編纂された研究資料によれば、試作機は同社のレンジファインダー機をベースとしていたという。戦前のドイツでライカと並び称された35mm判の高級カメラ、コンタックスII型およびIII型*である。

 話はすこし逸れるけれど、ここで「ライカとコンタックス」について少し触れておこう。1930年代に於いて、両者は「世界最高の小型カメラ」の座を競う好敵手だった。それはこのふたつのブランドが35mmフォーマットの最高級機たらんとしながら、ほとんど正反対の個性を備えていたからだ。
 よく“ライカは写真家の忠実な道具、コンタックスは技術者のエゴ”といわれる。どっちに失礼だかよくわからない話だけれど、この世評には頷ける部分もある。もっとも今ではどちらのカメラも懐古趣味の世界に入ってしまい、真剣にこれを議論するひともいないと思うが……いやこれは当時の製品の話なので、念のため。
 両者が現役のライバルだった当時、写真を撮るという行為に於いてはオスカー・バルナックが設計したライカ**こそ、世界でいちばんストレス無く被写体に向き合える装置だったはずだ。それゆえに写真愛好家はこぞってライカを手にし、世界中のメーカーはライカの模倣に走ったのだ。では対するコンタックスはどうだったか?
 こちらは遙かに高度な、というか過剰なメカをボディにぎゅうぎゅうと押し込み(あまりの複雑さゆえに模倣者がほとんど現れなかった)、少なくともスペックでは宿敵を凌駕してみせた。だがその多くは明らかにオーバースペックであり、ピント合わせやレンズ交換のたびに面倒な操作を要求するなど、使用に際してのお約束事も多い。操作手順を間違えるとレンズが外せなくなることもあって、僕のように浮気性で健忘症のうっかり人間には恐怖である。
 つまりヒューマン・インターフェースの完成度と洗練において、いにしえのレンジファインダー・コンタックスはライカの敵でなかった。優秀なカメラを“良い写真を容易に撮れる機械”と定義するなら、ライカの合理性こそ正義だったのだ。少なくとも、レンジファインダーという不完全な枠組みのなかでは。

●作例モデル:脊山麻理子

*注1)コンタックスのレンジファインダー機は1932年のI型がオリジナル。天才の誉れ高き機械技術者ハインツ・キュッペンベンダーが設計を指揮したこの機種は、市場で先行するライカを強く意識し、これを超えるために考案された恐ろしく複雑な(そして使いにくい)機構設計で名を馳せた。続くII型は1936年に、これの軍艦部に電気露出計を載せたIII型は1938年に製造を開始。フーベルト・ネルヴィン技師の設計によるこれらの機種はI型よりずっと常識的な設計となっている。

**注2)オスカー・バルナックはエルンスト・ライツ社の技術者で、彼が1913年に設計したレンジファインダーカメラはその後のライカの原型となった。彼が設計に携わったスクリューマウントのライカは1930年代半ばのIII型までだが、“バルナック型ライカ”はその簡潔で巧妙な設計ゆえに多くの支持を集め、ライツ社の発展を支えながら20世紀の半分を生きながらえた。


2002年12月04日掲載

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