* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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中華街・開帝廟にて、ペンタコン純正レンズをフジカSLRにネジ込んで撮影。ST605は露出計内蔵なのでサクサク撮れる。共通マウントはこんな芸ができてありがたい。次週はこのビオターとソ連製クローンの比較を掲載します。
FUJICA ST605 + Carl Zeiss Jena Biotar 58mmF2 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/60sec. F=3.5



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ペンタコンのフォーカシング・スクリーンは全面マットでかなり暗い。ただしピントの山は明瞭で、なにより中央1点のスプリットイメージに頼らず全画面でピントが合わせられるのが良いところ。 横浜中華街『桃花』 にて、美味しいご飯に身を乗り出すセヤマ・マリコ嬢。このお店の粽(ちまき)は絶品、ただしコースは量が多くて僕とアシスタントのテイコさんは途中でギブアップでした。
Zeiss Ikon Pentacon + Pentax SMC Takumar 28mmF3.5 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/30sec. F=4



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●今週のお題:
『ペンタコン(コンタックスD)+M42レンズ』
東ドイツ一眼レフの理想と現実。写真上はKW社より1949年10月に発売された『プラクチカ』初号機で、大柄なボディに大味なメカニズムを持つ、あまり特徴のないカメラである(practical=実用的、とは言い得て妙)。精緻なメカを凝縮したコンタックス/ペンタコンとは対照的だが、両機は同じM42スレッドマウントを持つためレンズが共用できた。コンタックスSがバヨネットマウントを捨てたのはこのあたりに原因があるのだろう。プラクチカシリーズはその後30年以上にわたって進化を続け、実に40以上の基本形態を生み出して東側一眼レフを代表するブランドに発展していく。
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:2sec. F=11

 ペンタプリズムの革命 #5

 シンタックス・プロジェクトの試作機は、ツァイス・イコン社内で『シュピーゲル(ミラー)コンタックス』と呼ばれた。この命名は試作機が「ミラーとプリズムを持つコンタックス」であったことを伺わせるもので、確かに試作機はコンタックスRF機と同様の縦走行金属シャッターと一軸不回転ダイヤル、そしてバヨネット式の交換レンズマウントを備えていた(いつも専門用語が多くてすみません)。
 ただしツァイス・イコンの理想主義がここで止まる筈はなく、試作機にはなんと連動式の露出計まで組み込まれていたという。こうしたスペックは時代を優に十年はリードするもので、もしも平時に完成していればその後のカメラ発達史に多大な影響を与えていたはずだ。
 残念なことに、この計画の成果である試作機はすべて戦禍で失われてしまった。ツァイス・イコンの本拠地であるドレスデンは大戦末期に連合軍の空爆目標とされ、特に1945年2月の大空襲(13・14の両日にわたった)は激烈で、ツァイスの工場も大きな被害を受けたのだ。……もちろんカメラなどより、多くの被災者のことを悼むべきなのだが。
 悪いことは重なるもので、終戦の直後にソ連軍はツァイス・イコンを接収し、重要な生産設備や試作品を自国の領内へと持ち去った。これは光学技術と兵器技術が密接な関係を持っていたためで、ドイツはこの面でも世界最高水準にあったから、米ソをはじめとする占領国は血眼になって争奪戦を繰り広げたらしい*。このあたりの事情は、冷戦時代の宇宙開発競争にドイツのICBM技術が活かされたことと同じだ。
 さて。大戦直後の混乱を経て、新生東ドイツ(ドイツ民主共和国)の企業として再出発したツァイス・イコン人民公社は、1948年のライプツィヒ見本市において一台の試作機を発表する。『コンタックスS』と名付けられたこのカメラこそ、世界ではじめてペンタプリズムを内蔵**した第二世代の一眼レフだった。 ちなみにモデル名の“S”はシュピーゲルレフレックスの略という。
 研究開始から10年、ようやく日の目を見た革命児だったが、不思議なことにこのカメラには戦時中の試作機に与えられた先進メカがほとんど搭載されていない。シャッターは平凡な布幕横走行となり、その速度設定も風変わりな回転ダイヤルと速度レンジの切り換えでお茶を濁している。露出計は影も形もないし、レンズマウントはバルナック型ライカと同様の原始的なスレッド(=スクリュー)マウントだ。
 この大幅スペックダウンの理由は定かでないけれど(敗戦直後で充分な生産体制が整っていなかったためとする説がある)、結果として本機はたいへん使い易いカメラになった。信頼性と耐久性も高く、これは現在も実働状態にある機体が多いことで実証されていると思う。もっともそのためにツァイスの“イコン”が希薄で、オーラを感じさせないのは皮肉なことだ。
 では、コンタックスSは歴史的価値だけの凡庸なカメラか、といえばそうではない。ちゃんと実用面で見逃せないアイデアが盛り込まれている。それはペンタプリズムを前方に傾けて搭載したことで、このため軍艦部の突起も低く抑えられ、コンパクトでスマートなデザインが実現した。ちなみに同様の工夫は最近のAF一眼レフでも採用されており、カメラ雑誌にはそちらを“コロンブスの卵”などと持ち上げる記述も散見されるが、アイデアのルーツは半世紀以上前に開発された本機にあることを明記しておきたい。

●作例モデル:脊山麻理子

*注1)ソ連によるツァイス・イコンの接収は戦時中のヤルタ合意に基づくもので、一種の戦後賠償と位置付けられたようだが、その実体は“早い者勝ち”の色彩が濃かったことは否めない。当時世界最高水準の光学技術を持つカール・ツァイスがソ連側に持ち去られることは西側陣営にとって看過し得ぬ事態であり、ドレスデンに侵攻した米軍はヤルタ合意を犯してツァイスの技術者数十名を強制的に西側に連れ去った。この結果としてカール・ツァイス社は戦後の東西ドイツ両国にそれぞれ異なる経営で存続することになる(カール・ツァイス分割の詳細はまた別の機会に記す予定です)。

**注2)ペンタプリズムを内蔵した一眼レフの“世界初”として、イタリアの『レクタフレックス』を推す研究者もいる。こちらは1948年の発売だから、量産開始時期はコンタックスSより1年早い。但しツァイス・イコンは1940年に基本特許(実用新案)を申請しており、これがレクタフレックスよりも早い時期にあたるためこの稿ではコンタックスを世界初とした。個人的にはイタリアに名誉をあげたいところなのだが。


2002年12月11日掲載

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