* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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今週は独ソのレンズ比較。こちらはカールツァイス・イエナ謹製のビオターで撮影。ヘリオスに比べると発色がやや暖色寄りで、(どちらが忠実な再現性を持つか、という話はともかく)ポートレート撮影には向いている。絞り羽根17枚の完全円形絞りを持ち、ボケ味はとても素直だ。レンズ構成は4群6枚の対称形、同一光学系で二種類のモデルが存在する。僕が所有するこの個体は鏡胴を小型化したモデルで、繰り出し量が少ないため最短撮影距離はレンジファインダー機なみの90cm。レンズにはツァイスのTコーティング(T*の前身)が施されている。
FUJICA ST605 + CZJ Biotar 58mmF2 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/60sec. F=3.5+1/2



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旧ソ連のBelOMO(ベラルーシ光学機械協会)製ヘリオス44-2で撮影。旧ソ連製レンズは戦後賠償or略奪の関係でツァイスとの関連が深く、このレンズもビオターに準じたレンズ構成を持つクローンらしい。ややシアンが強い発色だが、描写性にほとんど差はない。絞り羽根は半分以下の8枚、ただし羽根の形状が良いためかボケも遜色はない(点光源にわずかに絞りの形が見える)。最短撮影距離50cmはビオターの大型タイプと同一、こちらの方が実用性は高い。この個体は85年製。
FUJICA ST605 + Helios 44-2M 58mmF2 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:1/60sec. F=3.5+1/2



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●今週のお題:
『ペンタコン(コンタックスD)+M42レンズ』
ビオターとヘリオスのいちばんの違いはコーティングにあるのかもしれない。ペンタコンのミラーボックスはご覧のようにマウント径ぎりぎりの設計で、ボディの小型化に意が注がれたことがわかる。なお上記作例のレンズ比較について附記しておくと、ペンタコンは内面反射対策が充分でないため、比較撮影にはフジカST605を使用した。フィルムからのスキャンは同条件で行い、後処理も同じ条件で最小限に留めている。ただしクラシックレンズには製造時の個体差の他に経時変化によるコンディションの差が必ずあり、また撮影条件やフィルムとの相性による差も無視できない。限られた条件の比較で結論を出すのは控えたい。
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME ASTIA (RAP) Exposure Data:2sec. F=11

 ペンタプリズムの革命 #6

 1949年9月に量産がスタートしたコンタックスSは、発売と同時に世界中のマーケットに衝撃を与えた。レンジファインダー機は瞬時に時代遅れとなり、高機能カメラは一眼レフの時代を迎え、すべての写真家はレンズを通して被写体を観察し……。と、こう書くことができれば僕の長話も大団円なのだが、現実はしばしば理想と乖離した方向に進むものだ。いやむしろその方が多いだろう。
 現実はどうだったか? コンタックスSがデビューした後も、およそ10年以上にわたってレンジファインダー機はカメラの主流であり続けた。1952年に発売された改良型の『コンタックスD』(開発主管はワルター・ヘニング技師に引き継がれた)ですら、その翌々年に登場したライカM3に売上面で歯が立たなかったのだ。
 革命は一日にしてならず、写真術が変わるのには時間を要したということなのか? それともシンタックス計画の先進性に、世界がついていけなかっただけなのだろうか。
 話はここでようやくこの項の冒頭に戻って、自問自答してみる。何故ペンタプリズムという発明が、写真術の本質に迫る“真の革命”といえるのだろう。
 それはただ単に撮影レンズを通して被写体を観察できる、ということだけではない。第二世代の一眼レフは、写真術の歴史ではじめて人間の視覚を超える可能性を提示してみせたからだ。あらゆる焦点距離のレンズが無理なく使え、絞りに応じたアウトフォーカス部のボケを凝視でき、天地左右が正像のファインダーで正確な構図の絵づくりができる*。このシステムに比べれば、レンジファインダー機が提供する画面は不完全な虚像でしかない。そのファジーな感覚が趣味性につながることは否定しないけれど、不確かなファインダーを覗いて良い写真が撮れても、勘と偶然の境界線は曖昧なままである。
 思うに、コンタックスはライカなどよりもずっと先を見ていた。写真は人間の眼を超え、望遠鏡や顕微鏡の領域にまで踏み込める。だがそのためには、あらゆる撮影レンズを肉眼の延長のように扱えるシステムが不可欠だ。巨大な光学会社を母胎とするツァイス・イコンがそう考えたとしても不思議はないし、彼等がシンタックス・プロジェクトを通じて追い求めた理想は、そういう“神の視点”を人間に与えることだったように思えるのだ。

 激動の時代に生まれた初代コンタックス一眼レフはその後も発展を続け、1962年の生産中止まで多くのバリエーションを生んだ**。だがペンタプリズム付き一眼レフを発展普及させたのは東西どちらのドイツでもなく、遙か極東のメーカーだった。1960年代の半ばから日本製一眼レフは西側世界の市場をほぼ独占してしまうのだが、その技術のルーツはほとんど顧みられることはなかった。
 東独ツァイス・イコンはその後『ペンタコン人民公社』に編入される。同社は数多くのプラクチカ一眼レフを製造するが、神話に彩られたコンタックス・ブランドは1962年にいったん消滅する。その後1970年代に西側ツァイスと日本のヤシカ(現・京セラ)とのジョイントベンチャーとして再生し、デジタル時代の現在も優れた製品を送りだしている。
 東西に分裂したツァイスはやがてドイツ国家の再統一とともに統合されるのだが、このドラマはまた稿を改めて記すことにしたい。

(この項終わり:次回は脊山麻理子さんの作品集『50ミリの才能 #2』、2003年第二週よりエキザクタ一眼レフの特集がスタートします。お楽しみに)

●作例モデル:脊山麻理子

*注1)“初代”コンタックス一眼レフシリーズの弱点として、ファインダーの視野率が低い(おそらく80%台半ば)ことが挙げられる。これはペンタプリズムのサイズが充分でなかったためで、正確な構図の確認には不満が残るところだ。プリント時のトリミングを前提としたのかもしれないが……。ちなみに視野率100%を世界で初めて実現したのは日本光学の『ニコンF』である。

**注2)東独製コンタックスの基本形は7種類。シリーズ展開の途中、西側ツァイスとの間で『コンタックス』の商標権が争われたため、輸出モデルのペンタ部には『コンソル』『ヘキサコン』『アストラフレックス』『リタコン』『コルビナ』などさまざまな変名が刻まれた。これは最終的に“ペンタプリズマ・コンタックス”の略である『ペンタコン』に落ち着く。なおペンタコンのペンタ部に彫られたシンボルはドレスデンにある旧エルネマン社の塔屋で、このマークはその後も同ブランドのSLRに用いられた。


2002年12月18日掲載

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