* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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中国茶の素敵なCFに倣って、モノクロ用コントラスト強調フィルター(LZOS純正JS-12)を装着して撮影。こういう効果はネガフィルムよりリバーサルが向いているのだけど、単体露出計で光をシビアにチェックする必要がある。蘇州にて。
Arsenal Kiev 4 + LZOS Jupiter-12 35mmF2.8 FUJICHROME PROVIA400F (RHPIII) Exposure Data:1/50sec. F=8



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古典機で撮るときに忘れがちなのがフィルター使用時の露出補正。本来はデータシートの露出倍数を参考に補正をかける。あいにくLZOS製フィルターのデータは不明、単体露出計の受光部にかざして光量差をチェックした。撮影者の苦労をよそにご機嫌の麻理子ちゃん、背景は蘇州の名所・虎丘の斜塔。
Arsenal Kiev 4 + LZOS Jupiter-12 35mmF2.8 FUJICHROME PROVIA400F (RHPIII) Exposure Data:1/50sec. F=8



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●今週のお題:
『キエフRF』
撮影に用いたジュピター12をキエフIIに装着した図。このレンズは戦前のツァイス・イエナ製ビオゴンを基に造られたもので、最初期の製品はツァイスの設計に(ということは、かのルードヴィヒ・ベルテレの設計に)ほぼ忠実だったという。写真の84年製はコーティングなどが改良された最後期型。外部ファインダーは西独製レチナ純正品。キエフによく似合うデザインだが、レチナの設計者アウグスト・ナーゲルはコンテッサ・ネッテルの創業者だから、両者はけっこう近い親戚なのだ。
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME PROVIA100F (RDPIII) Exposure Data:2sec. F=16

 キエフへの道 #2

 1932年、ワイマール共和国の北東に位置する古都ドレスデンで一台のカメラが生を受けた。
 闇夜のように暗く、エナメルの靴のように滑らかな外装を持つそのカメラを造ったのは、当時にあって世界最大の規模を誇るカメラメーカー、ツァイス・イコン社。総合光学メーカーとして名高いカール・ツァイスのカメラ製造部門である。
 そのカメラの前板に刻印されたコンタックスの名は、ツァイス・イコンの母体となった4つのカメラメーカーのうちのひとつ*を捩ったものと思われる。ただしコンタックスI型(これは後続のII型が登場した時点で付けられた型式名)と呼ばれる同機を設計したのは、親会社のカール・ツァイスが送り込んだ技術者ハインツ・キュッペンベンダーだった。
 天才の誉れ高きキュッペンベンダーが目指したのは、写真撮影に必要な手続きのすべてから曖昧な部分を取り去ることだった。なぜなら彼が手がけるカメラの画面は長辺36ミリ短辺24ミリという極小サイズであり、鑑賞するさいの拡大率はそれまでのフィルムよりずっと高くなる**からだ。精密な写真を撮るためにメカの精度を高める、これはおおむね正しいソリューションである。
 キュッペンベンダーが問題解決のために取った設計手法はよく知られている。長焦点レンズ装着時のピント精度を保証する、長大な基線長を持つ光学距離計。シャッタースピードの高速化を安定して実現する縦走行の金属幕。素早く確実なレンズ交換のためのバヨネットマウント。撮影操作を右手に集中した独特のインターフェース。理には適ってはいるが、あまりに過剰な設計だった。
 実はキュッペンベンダーの発想はさらに奥が深いのだが、この点はもうすこし後で触れるとして、完成したコンタックスI型は途方もないカメラになった。スペックも凄いが、値段はもっと凄く、しかもとんでもなく使いにくかったのである。
 変わったモノが好きな僕はこのカメラに惹かれるところがあって、買う気が起きるたびに(昔は「家が一軒建つ」といわれたそうだが、今では値段も手が届く)馴染みの店でいじらせてもらっては、いつも手ぶらで帰る。相性が悪いことを確認するためデートに出かけるようなものだ。それにしても、当時のひとびとは本当にこのカメラで写真を撮る気になったのだろうか?
 勝手な憶測に過ぎないのだが、ツァイスはこのカメラを「技術のショーケース」的に捉え、本気で商売をする気はなかったのではないかと思う。ところがコンタックスI型には間もなく後継機が登場する。あえて改良版と書かないことにするが、このII型が登場したのは1936年のことである。
 おなじ年、ドイツの首都ベルリンではオリンピックが開催され、欧州にはふたたび戦争が近づいていた。この頃のドイツが仮想敵としたのは西の英国、そして東のソ連である。

●作例モデル:脊山麻理子

*注1)ツァイス・イコンは1926年にイカ、ゲルツ、エルネマンそしてコンテッサ・ネッテルの4社が合併して出来た企業体。この当時のドイツは第一次大戦の敗戦による深刻な不況下にあり、カール・ツァイスがこの4社を合併させなければカメラ産業全体が連鎖倒産で壊滅する可能性すらあったという。

**注2)この画面サイズは所謂“ライカ判”。もともと35ミリフィルムはシネ用を写真に転用した規格で、ライカ判も映画用の18ミリ×24ミリを二倍にしたサイズである。のちにデファクト・スタンダードとなるこの規格はバルナックが開発したライカの原型(1913年のウルライカ)に採用されて普及した。


2003年04月09日掲載

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