* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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蘇州にて。観光地の入り口にこういう写真屋さんが並ぶ風景は、ちょっと懐かしかったりする。それにしても後の看板が意味するのは「快速15分仕上げ」なんだろうか。中国語の略字はけっこうフラストレーションが溜まる。M3にエルマリートを装着して撮った一枚。
Leica M3 + Elmarit 28mmF2.8 FUJIFILM NewPRO400 (PN400N) Exposure Data:1/30sec. F=8



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オリオンで撮影。トポゴンタイプの光学系は(ホロゴンほどではないが)多少絞ってもこの程度の周辺減光が得られる。ご覧のようにカラーの発色も悪くないが、個人的にはモノクロで使いたいレンズだ。中心部の画質はエルマリートに劣らぬ先鋭なもの。
Leica M3 + ZOMS Orion-15 28mmF6 FUJIFILM NewPRO400 (PN400N) Exposure Data:1/30sec. F=8



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●今週のお題:
『キエフRF』
東西の壁を隔てて再び相まみえる好敵手に同型レンズを装着。M型ライカのファインダーはコンタックスのそれを発展させたもので、複数の交換レンズに対応する視野枠やパララックス自動補正を内蔵する高度なもの。ただしピント検出能力はコンタックス/キエフに一日の長がある。ジュピター12は外観意匠が異なるがレンズの光学系は基本的に同一、上のLTM版は中期の製品(68年製)で下の後期型とはコーティングがあきらかに違う。硬質なキエフと柔和なライカ、どちらがドイツ的デザインかといえば。
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME PROVIA100F (RDPIII) Exposure Data:2sec. F=16

 キエフへの道 #5

 コンタックスII型が登場したおなじ年、世界ではなにが起きていただろう。米国では写真雑誌「ライフ」が創刊され、日本では陸軍皇道派の青年将校らが決起して2.26事件を引き起こし、日本とドイツの間では防共協定が締結された。世界がふたたび戦争へと歩みを速めるなか、映像という情報は社会のあちこちに染みこんでいく。
 そんななか、革命から二十年を迎えようとするソヴィエト共産党政治局の面々は、オリンピック観戦どころではなかったはずだ。彼等はこの年に新憲法を制定し、国民の権利拡大をはかるいっぽうで党の権限を強化、広大な国土をまとめる中央集権体制を築こうとしていた。その過程で数多くの“同士”が粛清されていくのだから、誰も落ち着いてなどいられなかった。
 その新憲法の起草者にして大量粛清の張本人であるスターリンが、もしも多忙のなかでベルリンの祭典に注視したとしたら、彼我のテクノロジーの差を思い知らされたに違いない。農業国だったロシアとその周辺の国々を束ね、西欧に互する近代工業国家への転換を推しすすめたのは、他ならぬ彼なのである。その試みは道半ばではあったが、すでにソ連は飛行機からカメラにいたるさまざまな物品の国産化に成功し、独自の精密機械技術を育てつつあった*。
 ドイツの独裁者とは教条を異にしていたものの、スターリンはプロパガンダにも熱心だった。なにしろ世界に前例のない社会主義を国土のすみずみにまで行き渡らせ、資本主義とは別の経済システムをつくりあげ、戦争に備えなければならないのだ。といってTVもない時代(ドイツでは1935年よりTVの定時放送が開始され、オリンピックの中継放送すら実現していたがソ連での実用化は戦後のこと)、国民ひとり一人に高邁なマルキシズムを説くゆとりはない。国家を支えるイデオローグをなるべく効率よく、というよりも手っ取り早くひろめるために、彼は印刷媒体を多用した。
 こんな話がある。ベルリンオリンピック開催の前年、ソ連で飛行機が空中衝突を起こして墜落した。機体は当時にあって世界最大級のスケールを持つANT-20、通称「マキシム・ゴーリキー号」という**。墜落の前年に完成したこの巨人機(翼長63mは現在のB747“ジャンボジェット”より7mも長い)は旅客機でも輸送機でもなく、上空からプロパガンダ用の印刷物をバラ撒き、拡声器で政治教条を放送する“宣伝機”だった。その機内には放送室や写真現像用の暗室、映写室に加え、なんと印刷機まで備えられていたという。
 今の常識で考えると大陸的というか、なんとも大らかな発想だけれど、こんな機体で点在する町をめぐってビラ撒きや放送をするのは、あまり効率の良い手法とも思えない。北回りの航路からロシアを眺めたひとならわかるはずだが、あの国の人口密集地は野球場に置かれたベースプレート以下の比率である。
 けっきょくこの宣伝飛行隊はほとんど運用されずに終わる。たぶんスターリンは墜落した巨人機よりも、資本主義の権化のような写真雑誌や、ファシストの独裁者が送り出すプロパガンダ映像の方がずっと優れていると思っていたはずだ。それらは洗練された映像に彩られた文化であり、芸術であり、かつ強力な宣伝手段になり得るパワーを秘めていた。
 そして、その最先端映像の多くは、ドイツ製の機械によって撮影されていた。

●作例モデル:脊山麻理子

*注1)ソ連の国産カメラは帝政ロシア時代につくられた木製大型機に端を発する。近代的な工業製品としてのカメラというと、1933年よりウクライナで製造が開始(量産開始は34年)されたライカコピー機の『フェト』が有名。他にスポルトというカメラが1935年より少量生産されており、これが世界初の35mmロールフィルムを用いる一眼レフである。

**注2)マキシム・ゴーリキーは小説「どん底」などで知られるロシアのプロレタリア作家。ANT-20は彼の作家生活40周年を記念して1機のみが建造された。総金属製の機体は全長33m・全備重量42トン、合計8基の発動機を備え航続距離1000kmという空前のスケールだった。建造資金はロシア全土からの募金によって賄われ、その額600万ルーブル(現在の邦貨に換算して14億円以上)という。 ちなみに設計者は“ソ連航空産業の父”と称されるアンドレイ・ニコラフ・ツポレフである。


2003年05月14日掲載

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