* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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蘇州・虎丘にて、セヤマ・マリコと再会した双子の姉妹を記念撮影。35mmレンズの自然なパース感はこういう構図にちょうど良い。右上のハレーションはどうやらジュピター12に起因するフレア(この個体特有のクセか?)のようである。モノクロ用コントラスト強調フィルターを使用。
Arsenal Kiev 4 + LZOS Jupiter-12 35mmF2.8 FUJICHROME PROVIA400F (RHPIII) Exposure Data:1/50sec. F=8



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う〜ん、そっくりだ。
Arsenal Kiev 4 + LZOS Jupiter-12 35mmF2.8 FUJICHROME PROVIA400F (RHPIII) Exposure Data:1/50sec. F=8



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●今週のお題:
『キエフRF』
電気の目を与えられたカメラたち。右のキエフは1958年より量産に移された4型で、戦前のコンタックスIII型および戦後のIIIa型のハイブリッド的設計。露出計の受光部も仏塔みたいなダイヤルも背が低くスマートになった。左のM3に載せた露出計はライカ純正のMCメーター。どちらもセレニウム光電池によるパッシブ回路を内蔵する。基本設計に18年の開きがあるため、操作性や拡張性などはライカに軍配が上がる(ライカのメーターはシャッターダイヤルと機械的に連動し、低光量時にはブースターが装着できる)。かつてセレン光電池の寿命は十年といわれたが、僕の所有するこの両者のメーターは今も立派に作動する。
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME PROVIA100F (RDPIII) Exposure Data:2sec. F=16

 キエフへの道 #6

 ところでコンタックスII型には、双子の姉妹ともいうべき機種が存在する。おなじ1936年に登場したIII型がそれで、美しいII型の軍艦部に大きな四角い箱と仏塔のようなダイヤルを据えたため、ちょっと異様なスタイルになった。箱の中身は光を読む目、電気式露出計である。
 セレン光電池の発電作用を利用したこの露出計は、コンタックスI型とおなじ1932年に米国で開発されたものだ。発明者は英国生まれの米国人技術者エドワード・ウエストン*。当初からシネ用と写真用が用意されていたから、最大の顧客はハリウッドだったのかもしれない。
 ツァイス・イコンはさっそくこの発明品を搭載したカメラの設計に取りかかり、1935年に世界初の露出計内蔵機を発売する。35mm判二眼レフ、コンタフレックス**である。ただしこれは世界でもひと握り以下のひとしか買えない超高級カメラだった(当時の日本での値段は2000円で、ライカの家一軒にたいしてこちらは「大邸宅が建つ」といわれたそうだ)。だからその翌年に発売されたコンタックスIII型こそ、ツァイスが本気で電気露出計の恩恵を広く知らしめようとした戦略商品といえる。といっても両者の値段は大差がないというか、まあロールズ=ロイスのリムジンとセダンはどっちがお買い得、みたいな次元の話である。

 コンタックスIII型の場合、露出計内蔵といっても現代のカメラのように自動露出ができるわけではない。軍艦部に載ったメーターはカメラ本体といっさいの機械的連動を持たないのだ。撮影の手順は次の通りである。
 まず仏塔型のダイヤルを反時計方向にいっぱいに回しておく。それからメーターのカバーを跳ね上げ、被写体に向けて指針が適正値(ダイヤマーク)を指すところまでダイヤルを戻す。ダイヤルの側面に表示された絞りとシャッタースピードの組み合わせから、任意のひと組を選んでカメラにセットする。なんのことはない、単体露出計で測るのと意味はいっしょだ。
 実用上は露出計の受光角が標準レンズのそれとほぼ一致している(セレン光電池の前面に置かれた半透明の樹脂板をルーバー形状として横からの入射光をカットする)とか、上からの光も開閉式の扉で遮断するとか、まあそういう実直な工夫はある。でもそのアンバランスなデザインは、路上で遭遇したライカユーザーを「こっちはエレキ内蔵だゾ」と威嚇する効果の方が大きかったと思う。
 もちろんツァイス・イコンがその先の展開を考えていないはずはない。彼等は1938年頃からペンタプリズムと連動露出計を組み込んだ一眼レフカメラ、プロジェクトネーム「シンタックス」の開発に着手していた。順調にいけばこれがコンタックスの後継機となるか、別のシリーズとされても露出機構はレンジファインダー機に移植されただろう。だが1939年8月のある日を境にその未来は閉ざされる。
 コンタックスの運命を変えたのは、二人の独裁者が結んだ条約だった。

●作例モデル:脊山麻理子

*注1)エドワード・ウエストン(1850-1936)はニュージャージーにウエストン電機(Weston Electrical Instrument Corp.)という会社を興し、電圧計や電流計、発電システムなど自身の発明品を含むさまざまな電機製品・部品を製造販売していた。彼が電気露出計の研究に着手したのは1928年頃で、この露出計は1931年に完成して特許出願、35年に米国特許を取得している(ツァイス・イコンも特許料を払っていたはずだ)。ウエストンはその後英国にも拠点を置き、戦後は日本のセコニックにライセンスを供給するなど世界の露出計を代表するブランドとして君臨した。企業としては1980年に消滅したが、最後期の製品「ユーロマスター」は英国の別の企業が引き継いで生産しており、優美なスタイルを好むファンも多い。

**注2)ツァイス・イコンにはコンタフレックスという名のカメラがふたつある。1935年に発売されたのはコンタックスとおなじ金属縦走行フォーカルプレーンシャッターを搭載した二眼レフ。もうひとつは1953年から西独ツァイス・イコンがスタートさせたレンズシャッター搭載の一眼レフシリーズである。どうでもいいけどこの会社のネーミングは紛らわしくて困る(他にコンタレックスというのもあった)。


2003年05月21日掲載

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