* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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蘇州の運河をめぐるちいさな船で、無理をお願いして船首のデッキで撮影。操舵室の視野を僕ら二人が塞いでしまったので、操船はけっこう大変だったはず。多謝。
Leica M3 + ZOMS Orion-15 28mmF6 FUJIFILM NEOPAN 400 PRESTO Exposure Data:1/30sec. F=8



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これは28mmでぎりぎりの構図(撮影ポジションはこれ以上引けない)。さいきん流行りの広角ズームなどに慣れてしまうと、こういう写真を撮ろうとしなくなる。たぶん写真は「あと何センチ引けたら」みたいな条件が面白いのだ。
Leica M3 + ZOMS Orion-15 28mmF6 FUJIFILM NEOPAN 400 PRESTO Exposure Data:1/30sec. F=8



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●今週のお題:
『キエフRF』
キエフ用交換レンズの種類はこのユニバーサルファインダー(ツァイス製がオリジナルだが、ソ連では左右を逆転させた二種類がつくられた)のターレットの数で決まった? 左のレンズは85mmのジュピター9、おなじスペックのゾナーを母体とする傑作レンズだ。フレアカットにはツァイス純正タイプのフードが有効。本体のファインダー像はおおきく蹴られるけど二重像はなんとか見えるし、右のレチナ用ファインダー(35mm/80mmの切り換え式)でも視野は遮られない。右のボディは4a初期型、左はII型。
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME PROVIA100F (RDPIII) Exposure Data:2sec. F=16

 キエフへの道 #7

 1939年8月23日、時のドイツ外相リッベントロープは空路モスクワに赴いていた。彼の首に掛かっていたのはライカやコンタックスではなく、国家の命運である。この深夜に彼とソ連外相モロトフが調印にあたった「独ソ不可侵条約*」こそ、まもなく開戦する戦争のきっかけと帰趨、さらにその先の世界の枠組みに直結する重要な伏線だった。それから一週間後の9月1日、ドイツ機甲師団は電撃的にポーランドに侵攻し、欧州全土はふたたび戦火に包まれていく。
 さて、ここから終戦までの経緯を書きはじめるとブラウザの縦スクロールは果てしなく伸び、本題のカメラからも離れてしまう。そこで興味のある方には歴史書をお読みいただくことにして、話は一気に1945年のウクライナに飛ぶ。欧州戦線も縮小しつつあった2月4日、黒海に面したクリミア半島ヤルタ近郊のリヴァディア宮殿に、連合国の三首脳が顔を合わせた。歴史に名高い「ヤルタ会談」の開催である。
 2月11日まで続く会談の席では、第二次大戦の戦後処理が協議された。そのなかで降伏後のドイツの分割統治が決定されたのだが、ポーランドなどと国境を接する東側地区をソ連が手にすることは、ごく自然に思われた。ソ連は先の不可侵条約を一方的に破棄され、電撃的に侵攻したドイツ軍によって膨大な死傷者を出す痛手を受けていた**から、戦後賠償もそれに見合うものでなければならない。ヒトラーに騙されて戦争に巻き込まれた格好のスターリンが、ルーズヴェルトとチャーチルを相手に強硬に主張したとしても無理はない。
 なかでもドレスデンとその近郊の工場群は、スターリンの目にこのうえなく魅力的に映ったはずだ。そこには他ならぬカール・ツァイスの本社とグループの光学工場が置かれていたのである。あのドイツの素晴らしいプロパガンダ映像をつくった技術がまるごと手に入る……。
 ヤルタでの会談が合意に達して三ヶ月後、ヒトラーは自決し、ドイツは無条件降伏。欧州戦線は終結する。

 終戦後に生じたボタンの掛け違いは、たぶん米国の大統領が交代***したことにはじまる。ドレスデン地区をいちはやく占領した米軍はヤルタ会談の取り決めを無視し、カール・ツァイスの主要な技術者数十名とその家族を西側領土に連れ去ったのである。共産主義者の勢力拡大に警戒を深める米国にとって、同社の高度な光学技術をソ連に独占される事態はなんとしても避けたかった。態度を硬化させたソ連は米国に抗議し、ツァイスの生産設備を自国内に移送することを決める。ドレスデン市内は空爆で瓦礫の山と化し、ツァイス・イコンの工場も深刻な被害を受けていたが、コンタックス生産設備は(組み立てを待つ数多くの部品とともに)爆撃を耐え抜いていた。また近郊のイエナにはカール・ツァイスの本社と光学工場が健在であった。
 ドイツ光学技術の象徴であるコンタックスは、こうしてコミュニストの国のカメラに転生する。その前板には流麗な6文字のロゴに換え、力強い書体でウクライナの首都の名が刻まれた。ドイツ軍の占領から1943年11月16日に赤軍により開放された古都、キエフである。

●作例モデル:脊山麻理子

※次号はキエフ編をお休みして「脊山麻理子さん撮影の上海・蘇集特集(2)」をお送りします。

*注1)ヒトラーとスターリン、反目するふたりの独裁者が取り交わしたこの条約には謎が多い。戦線の二極化を(すくなくとも当面のあいだ)避け、かつ物資の補給路を確保しておきたいヒトラーはともかく、それまで反ファシズム・人民戦線政策を掲げてきたスターリンが、なぜドイツと手を組んだのか。諸説あるが、おそらくスターリンはドイツと事を構えても赤軍に勝ち目はなく、世界規模の社会主義革命に備えるため戦争を静観しようと考えていたのだろう。この両者の駆け引きは「ヒトラーとスターリン」(A・リード/D・フィッシャー著、根岸隆夫訳 みすず書房刊)に詳述されている。

**注2)1941年6月22日、ドイツは300万の兵力でソ連に侵攻した。「バルバロッサ作戦」と呼ばれるこの独ソ開戦から終戦までの4年間でソ連は第二次大戦参戦国中でもっとも多くの戦死者を出した。その数は戦闘員1300万人/非戦闘員700万人という。ちなみにドイツのそれは350万人/380万人、日本が170万人/38万人、米国は40万人/6人と発表されている。

***注3)米大統領フランクリン・ルーズヴェルトは1945年4月12日に急逝、後任には筋金入りの反共主義者として知られる副大統領ハリー・トルーマンが昇格した。


2003年05月28日掲載

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