* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers
東京レトロフォーカス


  文・写真/中山慶太 --->Back Number


写真
---> 拡大表示

手前のひなびた瓦屋根、いかにも共産主義の名残り(まだ続いているらしい)という風情の味気ない建物、その屋上のネコ芝居の看板、遠方の高層ビル。ぬるくて美しい継ぎ接ぎの風景。やっぱり上海は面白い。
Leica M3 + ZOMS Orion-15 28mmF6 FUJICOLOR NewPRO400 (PN400N) Exposure Data:1/30sec. F=8+1/2



写真
---> 拡大表示

次号より上海を舞台に麻理子ちゃんとお猿くんの冒険が始まります。これはお約束の外灘から、東洋一のテレビ塔を望んだ一枚。ところでこの空に立ちこめる暗雲は・・・(僕らが訪れた2003年3月は危機一髪のタイミングでした)。
Leica M3 + ZOMS Orion-15 28mmF6 FUJICOLOR NewPRO400 (PN400N) Exposure Data:1/30sec. F=8



写真
---> 拡大表示

●今週のお題:
『キエフRF』
キエフIIIaの原型は1936年に発表されたコンタックスIII。梨地クロームメッキの輝きに差があるものの、両機の造りおよび操作感には基本的にほとんど差がない。ただしキエフが備えたシンクロターミナルは戦前のコンタックスには無かった装備で、このあたりに時代の差を感じる。実はこの両機には二十年の隔たりがあるのだった。(コンタックスIII 機材提供=倉持伸之氏)
Nikon FE2 + Micro-Nikkor105mmF2.8 FUJICHROME PROVIA100F (RDPIII) Exposure Data:2sec. F=16

 キエフへの道 #8

 ドレスデンのコンタックス生産設備がウクライナに移されるまでには、多少の紆余曲折があったようだ。このあたりの事情は著名なエコノミストであるリチャード・クー氏が現地に赴いて取材している。
 氏の著書「東ドイツカメラの全貌」(リヒャルト・フンメル氏、村山昇作氏との共著、朝日ソノラマ刊)によれば、この設備はイエナ工場のレンズ生産設備とともにいったんは貨車に乗せられたが、けっきょくイエナの工場に戻されたらしい。そこでソ連から送り込まれた数百名の技術者がツァイスの技術者に研修を受け、この高度なカメラ・レンズの設計製造に関するノウハウを吸収したという。ソ連首脳部は資本主義陣営への対抗上から生産設備の早急な移送を決めたものの、道具だけ揃っても物はつくれないことに気付いたのだろう。
 イエナにおける数年間の研修は、主として戦時中にストックされていたパーツを組み上げる作業に費やされた。研修に並行してイエナではおよそ二千台の戦前型コンタックス(II型およびIII型)が製造されたが、このアセンブルにロシア人が従事したかは明らかでない。二千台の非ドレンスデン製カメラ、通称“イエナ・コンタックス”はその稀少性ゆえ、今も市場では高値で取り引きされている。
 キエフの生産が正式にウクライナの地でスタートしたのは、イエナでの技術研修が終わり、再度の設備移送が完了した1948年からという。このボディにマウントされたレンズはモスクワ郊外のクラスノゴルスク工場(KMZ)で生産されたZK(ゾナー・クラスノゴルスク)およびBK(ビオゴン・クラスノゴルスク)である。およそ700kmを隔てたふたつの都市に工場を分けた形だが、おそらくソ連首脳部としては、光学技術の“キモ”であるレンズ工場を首都モスクワの近隣に置いておきたかったのだろう。
 ではなぜ、カメラボディの生産設備はウクライナに置かれたのか? そもそもソ連は、なぜコンタックスにキエフの名を付けたのだろう?
 ここでもういちど考えてみなければならないのは、ソ連とウクライナの関係だ。

 こんにちウクライナ共和国として知られる国家は、ロシアの中心部の南に位置する。ちょうどモスクワと地中海の中間と書けば、地理が不得手の方にも位置関係はなんとなく理解できると思う。
 そのウクライナが国家の体裁を成したのは15世紀頃のことらしい(それ以前には「キエフ・ルーシ」という国家も存在したようだ)。ただしウクライナという名の国家*が正式に世界史デビューを果たすのは、第一次大戦のさなかにロシア革命が勃発した1917年のことである。
 この年の11月、「ウクライナ人民共和国」の独立を宣言した中央評議会は新生ソ連のボルシェビキ**との戦いに敗れ、国家を明け渡さなければならなかった。ソ連に敵対するワイマール共和国(=ドイツ共和国)、およびポーランドを交えた勢力争いの結果、ウクライナは1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦に組み込まれてしまう。
 その後国内では民族主義者の独立運動も継続していたのだが、スターリンはこれを鎮圧する目的で国家による農作物の強制的な徴発を強化、ウクライナに人為的な飢饉を引き起こすという暴挙に出る。1932年(ちょうどコンタックスI型がデビューした年)から翌年にかけて行われたこの虐殺の犠牲者は700万人、ウクライナの全人口の二割にあたるという。
 スターリンがかような圧政を敷いたウクライナの地にコンタックス生産設備を移設し、その首都の名を冠した意図はどこにあったのか。その私的な考察は次号にて。

●作例モデル:脊山麻理子

*注1:ウクライナは現地語で「辺境」「未開地」という意味。

**注2:ボルシェビキは共産主義の旗の下にレーニンが組織した戦闘的政治集団。後のソヴィエト共産党の母体となった。


2003年06月11日掲載

<--Back     Next-->



Webmaster :
ammo@tokyo.fujifilm.co.jp
Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部