* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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海に近いビルの窓辺で。85mmの画角はポートレートに最適で、反面こういう定石的な構図から逃れることが難しい。室内側は白壁に蛍光灯光源(かなり暗い)で、窓から射し込む外光とのミックス光が軟らかく回っている。カメラの内蔵露出計には厳しい条件。単体露出計で測ってマニュアルで撮った。
Arsenal Kiev-10 + Jupitar-9 85mmF2 FUJICHROME ASTIA100F (RAPF) Exposure Data:1/125sec. F=2.8



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こういう表情が撮れるまでずいぶん時間がかかった気がする。セオリーを無視したライティングだけど、個人的にいちばん好きなカット。上の写真とおなじ露出値で絞りを開放に設定、モノクロに入れ替えて撮影した。 Arsenal Kiev-10 + Jupitar-9 85mmF2 FUJIFILM NEOPAN 400 PRESTO Exposure Data:1/60sec. F=2.0


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●今週のお題:
『キエフ10』
側面以外のどの角度から眺めても、必ず独創的な機構が見つかるカメラ。マウント左に見えるダイヤルは絞り設定用(A=オートポジションを含む)。マウント内側の黒いリングは絞りの制御環で、レリーズボタンを押し込むと任意の絞り量まで回転、レンズと機械的に連動して絞り羽根を作動させる。奥に見えるミラーは支点が後退しながら跳ね上がるスイングアップ方式。底面右に覗いているのは巻き戻しクランク。バヨネットマウントの装着角度は異例に小さく、レンズの確実な脱着には少し神経をつかう。
FUJIFILM FinePix S2Pro + Micro Nikkor 105mmF2.8 Exposure Data:/4sec. F=16

 恐竜の時代 #7

 さて、ロシアとウクライナの技術者たちが“共産圏のフラッグシップ”に取り組んでいるあいだ、1960年代初頭の写真工業界の様子をみておこう。この当時、世界のエンジニアは次世代の重い扉を電気の力を借りて開こうとしていた。カメラにエレキの力を与えて何をさせるか? そこには高精度化と自動化のふたつの道筋がある。この時点までに前者は露出システムの内蔵による撮影支援として、後者はそれを発展させた「露出の自動制御」としてそれぞれ実用化されていた。
 この自動露出システム(AE=Automatic Exposure、初期にはEE=Electronic Exposureと呼ばれた)は戦後のごく早い時期に米国のメーカーが実現していたが、量産機での採用はビギナー向けの機種に留まっていた*。初期のAE機構は性能が不充分だったこともあり、写真撮影に不慣れな初心者を救済する目的に用いるのが妥当と思われたためである。
「チョーカンタン、チョーキレイ」はいつの時代にも正義とはいえ、長いあいだクルマの運転術がふたつのペダルと変速レバーの操作で成り立っていたように、写真術は絞りとシャッター速度を相関させて行う露出のメカニズムと不可分のものである。それはたんに写真に適切な明暗階調をもたらすだけでなく、動きと被写界深度という表現に直結するからだ。
 ゆえにこの制御をカメラに任せることは、表現者の権利と義務をなかば放棄するようなものだ。ベテラン写真家の多くがそう考え、いっぽうで技術者はまた別の理想を、エレクトロニクスの応用による自動化の可能性を追い求めていた。カメラの進化とは、常にこうした保守と革新のせめぎ合いによってもたらされるものである。
 そしてもうひとつ、そこには需要と供給のバランスで支えられた市場原理が介在する。ユーザーの要望が少ない機能を載せても、製品が売れなければ開発費の回収はおぼつかない。またこの当時までのカメラ工業界は光学技術と機械技術の融合で成り立っており、電気の本格的な応用は人材面でも設備面でも多大な投資を必要とした。
 そういう時代を背景に、当時において世界最高の(というより、最高価格の)カメラを供給していた西ドイツのメーカー、ツァイス・イコンとエルンスト・ライツは「高級カメラの市場で露出の完全自動化を求めるユーザーはまだまだ少ない」と踏んでいた。彼等の主要な顧客は職業写真家やキャリアの長い愛好家であり、そういうひとたちは経験に裏打ちされた技術と方法論を持っている。そう信じたツァイスはコンタレックスで必要以上の自動化を追求しようとしなかったし、ライツはSLRにすら懐疑的であった**。

 こうしてドイツの巨人達が保守的なマーケットに縛られているあいだ、極東の島国ではいくつかのメーカーが高級カメラの自動化にとり組み、共産圏の技術者はまた別の目的のために電気カメラの開発にいそしんでいた。両者が相次いでその成果を発表するのは60年代のなかばのこと、折しもソ連の指導体制が変わろうとする時期であった。

●モデル:脊山麻理子

■本稿の執筆にあたってはロシアカメラ研究家の三枝史明氏が運営されるWebサイト『Old Soviet Camera Guide』より多くの示唆をいただきました。

*注1:AE(EE)機構を搭載したカメラを大衆向けに量産したのは日本のメーカーで、オリンパス・オートアイ(1960年発売)やキヤノン・キヤノネット('61年)などによって自動露出機構はコンパクトカメラの主流となった。

**注2:ツァイス・イコンの最高級機コンタレックスは最終型のSE(1968年発売)に至るまで自動露出を採用せず、露出計そのものも非搭載のタイプが存在していた。これは初期のライカのSLRも同様である。ただしツァイスはレンズシャッター方式のSLR「コンタフレックス・スーパーB」で初のAE機構を採用している。


2003年10月15日掲載

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