* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


写真
---> 拡大表示

江戸東京たてもの園でも人気のある建築、居酒屋「鍵屋」の軒先にて。この建物は台東区下谷から移築されたもので、1956年(安政三年)の建築という。のれんの上部、軒先の造りは「出桁」という独特の様式らしい。周辺の光量落ちはフードのケラレ。
Arsenal/Arax 60MLU + Carl Zeiss Jena Flektogon 65mmF2.8 FUJICHROME ASTIA100F Exposure Data:1/125sec. F8



写真
---> 拡大表示

木漏れ日が美しい古民家の縁側で。麻理子ちゃんが首から下げているのは、先週掲載した写真を撮影したフォクトレンダー・プロミネント。「重いけど、シャッターの音が良いですね」とはレチナ使いマリコの感想。
Leica M3 + Elmarit-M 28mmF2.8 FUJICHROME ASTIA100F Exposure Data:1/125sec. F2.8+1/2



写真
---> 拡大表示

今回の撮影では二台のスクエアフォーマットカメラを用意したが、あいにくメイン機材のハッセルブラッドに巻き上げトラブルが発生。窮地を救ってくれたのがこのウクライナ製カメラである。ARAXというブランドは販売店の商標で、その実体は旧ソ連製ミディアムフォーマットカメラの名品「キエフ60」そのもの。ウクライナ・アーセナル社(ソ連崩壊後に国営企業として残った)で現在も製造されており、アーセナル自製をはじめ東独ツァイス・イエナやマイヤなどの豊富な交換レンズが使える。TTLメーター付きプリズムファインダーも用意されるが、僕はこのウエストレベルファインダーで使っている。装着レンズはゾディアック30mm対角魚眼、画角180度の作例は次号以降で。

スクエアフォーマットの誘惑 #4

 それにしても「名機」と呼ばれるカメラには、大概なにがしかの伝説がインストールされているのはなぜだろう。つくったひとが変わり者だとか、知らずに使った写真家が高画質にぶったまげたとか、値段が高くて家が一軒建つほどだったとか、そのバリエーションは無数にある。
 まあこういう伝説の多くは後からつくられたものが多かったりして、真偽のほどには疑問を差し挟む余地がたっぷり空いていたりするのだけど、話がスウェーデン人となると事情が違う。なにしろ頑固者が多いお国柄だそうなので(しつこくてすみません)、あやふやな逸話の捏造は許されない筈だ。
 で、そのひとの名前はハッセルブラッド博士。スウェーデンの人名にあまり馴染みのない日本でも、この名前はイングリット・バーグマンやアルフレッド・ノーベルの次に知られているだろう。博士がハリウッド女優やダイナマイトの発明者とおなじくらいに有名なのは、彼の名を冠したカメラがコマーシャリズムの幻影をまとった、一種のステイタス・シンボルだったからだ。

 さる日本のカメラマンがニューヨークの和食屋で料理写真を撮影していたとき、傍らのギャラリーに「君はハシが使えるのか」と感心された。箸くらい日本人なら誰でも使えますよ、とこたえたところ、相手はひれ伏さんばかりの勢い。妙なことに驚く奴もいるものだ、と思ったら、相手が言っているのはカメラのことだった。アメリカ人はハッセルブラッドを「ハッシー(Hassy)」と呼ぶのである。
 この小咄には重要なヒントが隠されている。それは「ハッセルは箸より有名だ」ということ。じゃなくて、ハッセルブラッドには常人が近寄りがたい「プロの道具」としてのイメージが強くあることだ。使えるひとはそれだけで尊敬される。そういうカメラをつくったハッセルブラッドとは、いったいどんなひとだったのだろう。

 ビクター・ハッセルブラッドは1906年生まれ。子供のころから自然観察が趣味で、長じて写真機を手にすると野生動物や野鳥の写真を撮りまくり、20代のおわりには渡り鳥の記録を研究書にまとめて出版するほどだった。その当時に彼が使っていたのは米国製の大判カメラだったそうで、自然観察に大型の機材をもちいたというのは根性が入っている。当時は35mmフィルムの小型カメラも普及していたけれど、長焦点レンズを多用するネイチャーフォトの分野では選択肢に入らなかったのだろう*。
 博士が愛用した大判カメラは8×10.5センチの画面サイズを持つ「グラフレックス」SLRで、これはレンズはもちろん、シートフィルムを装填したホルダーなどを自由に交換できる。実は撮影の目的に応じて形態が変化する「システムカメラ」のルーツはこの種の大判カメラにあるのだけど、当時のこれは機動性という点ではいかにも無理がある。そこで博士は自分でカメラをつくることを考え、研究をはじめた。
 やがて第二次大戦が勃発し、中立国であるスウェーデンにも戦禍の影響がおよびはじめる。そんな1940年のある日、スウェーデン空軍から呼び出された彼に一台のカメラが示された。自国領内に墜落したドイツ空軍機から回収された航空カメラである。
「これとおなじものがつくれるかね」という軍の担当者の質問に、彼は首を横に振ってこう答えた。
「おなじものはつくれませんが……もっとすぐれたものならつくれます」
 ハッセルブラッドの伝説は、こうしてはじまる。

●モデル:脊山麻理子


*注:ライカやコンタックスに代表されるレンジファインダー機は長焦点レンズでのピント精度に限界があり、135mmを超える焦点域では特殊なアダプターを併用する必要があった。ハッセルブラッド博士はライカも使用していたが不満が多く、これが彼を中判SLR(一眼レフ)の開発に向かわせる理由のひとつとなったという。


2004年05月12日掲載

<--Back     Next-->



Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部