* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


写真
---> 拡大表示

ハッセル500CMで撮影。ここで使ったプラナーCレンズは「白玉」の愛称で親しまれるシルバー仕上げの旧タイプ。コーティングがやや弱く、またボディの内面反射対策にプアな部分があるため逆光時にフレアを引きやすい。こういう写真を楽しむ意図がないならハレ切りは必須。
Hasselblad 500CM + Carl Zeiss Planar80mmF2.8 FUJICOLOR NewPro400 Exposure Data:1/125sec. F11



写真
---> 拡大表示

セルフポートレート。中判用レンズの被写界深度はライカ判に比べてかなり浅く、この魚眼レンズですら絞り込まないと遠景がボケる。このあたりの微妙なボケ加減はファインダーで確認できないことが多いから、レンズ鏡胴の深度スケールを積極的に使おう。
Arsenal/Arax 60MLU + Arsenal Zodiak 30mmF3.5 FUJICHROME ASTIA100F Exposure Data:1/250sec. F8



写真
---> 拡大表示

今週はカメラギャラリーをお休みして、マリコさまの御尊影をもう一枚。これは前に紹介したプロミネントで撮影したカット。プロミネント純正レンズはイエローの強い発色で、夕方の斜光線で使うと色温度をドラマチックに下げてくれる。画面上のハイライト部分で弱いフレアが発生しているが、周辺のコントラスト低下はごく軽微。現代の製品とはまるで方向性が違うが、これは使っていて愉しいレンズだ。
Voigtlander Prominent Ia Ultron 50mmF2FUJICOLOR NewPro400 Exposure Data:1/250sec. F5.6+1/2

スクエアフォーマットの誘惑 #6

 1948年10月5日に米国ニューヨーク市で何が起きたか。あいにくネットでキーワード検索をかけてもたいした話は出てこない。ただしNYCの出版社が出していたTVガイドの古本は面白そうで、思わずオーダーしそうになった。終戦から3年で週刊テレビガイドが売られていたのだから、アメリカはつくづくお金持ちの国である。
 ところで上のキーワードに“hasselblad”を追加すると、ちゃんとハッセルの歴史を扱ったサイトにヒットする。世の中便利になったものだけど、個人サイトの情報は裏をとるのがたいへんだ。ともあれ、この日この街のとあるアスレチッククラブにハッセルブラッド社が報道陣を集め、同社初の民間向けカメラを世界デビューさせたことは確かな事実なのだ。
 そのカメラ「ハッセルブラッド1600F」*はだれがどう観てもハッセルにしか見えないカタチをしている。 デビューから半世紀以上も基本デザインを崩さない工業製品は、たぶんカメラの分野では他にライカがあるくらいだろう。これは凄いことだ、と驚いたふりをするのは簡単だけど、ちゃんと理由を考えなくてはいけない。
 ハッセルはなぜデビュー時から変わらないのか。それはもともと製品の完成度が高かったから、という月並みな話しか出てこないようだとこの連載も先行きが怪しい。実は変えたくても変えられない理由があるのだ。それはハッセルブラッドの存在理由そのものにかかわることである。

 1948年に登場した1600Fは、世界中から驚きと賞賛を持って迎えられたという。でもレンズ交換ができる一眼レフタイプの中判カメラはそれまでにも存在したから**、人を驚かせるにはなにか別のアイデアが必要だった。ハッセルブラッド博士もそのことはよくわかっていて、1600Fの設計主管であるパーシー・スヴェンソン技師に斬新なコンセプトを提示する。それは合理的で効率の良い構造、シャッター速度の高速化、そして機動力と速写性の確保、というような内容だった。ちなみにこの基本条件は今のカメラでもまったく変わっていないから、博士の見識は確かなものだったといえる。
 上の条件のうち、合理性と効率の追求は6×6のスクエアフォーマットを選んだことで達成された。レンズが提供するイメージをいちばん無駄なく利用するには、この画面比率しかなかったからだ。またシャッター速度については、構造上高速を出せないレンズシャッター(当時は1/300秒あたりが限界だった)を捨て、金属膜のフォーカルプレーンシャッターを搭載することで実に1/1600秒を実現した。ちなみにモデル名はこのシャッター速度から来ているから、これがいちばんのウリだったのかもしれない。
 ただしハッセルの真骨頂というか、今でも色褪せない魅力は次の「機動力と速写性」にある。これは全体を軽量コンパクトにまとめること、そして機能部品をすべて分割し、目的に応じて最適の形態に組み合わせる「システムカメラ」とすることで解決したのだ。
 このシステムカメラという概念は後年に日本のメーカーがSLRで展開し、盛んに宣伝を打ったからプロ用カメラの代名詞みたいになった。でも近代的なカメラにこの概念を持ち込んだのはハッセルブラッドが最初のはずだ。それ以前のカメラでもレンズ交換やファインダー交換は実現されていたけれど、1600Fはフィルムマガジンも交換式にして、すばやいフィルムチェンジに対応したからだ。
 ハッセルブラッド博士の着想と技師たちの創意により、ハッセルは当時最先端のスペックと思想を持つカメラとなった。同時に、変えたくても変えられないカメラにもなってしまったのだ。

●モデル:脊山麻理子


*注1:ハッセルブラッド社が1600Fを完成した当初、カメラに冠する商標は「ロゼックス」を予定していた。だがこの商標は英国の会社が保有していたため、急遽社名をそのままカメラにつけて発売したといういきさつがある。

**注2: 前にも記したように、ハッセルタイプの「前後に長い」カメラは戦前ドイツのプリマーフレックスやプリンツがあった。また通常のライカ判SLRと同系統の「左右にフィルム室を持つカメラ」としてはエキザクタ66やレフレックス・コレレが有名。この左右に長いタイプはその後東独のプラクチ6(ペンタコン6)に引き継がれ、旧ソ連のキエフ60や日本のペンタックス67として今にいたる。


2004年05月26日掲載

<--Back     Next-->



Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部