* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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「江戸東京たてもの園」に移設された昭和初期の銭湯「子宝湯」にて、なぜか男湯でくつろぐ麻理子ちゃん。湯船の背後に描かれているのは伝統的なペンキ絵、なんでも現存する銭湯絵画の9割は富士山が画題なのだそうだ。
Arsenal/Arax 60MLU + Carl Zeiss Jana Flektogon 65mmF2.8 FUJICHROME ASTIA100F Exposure Data:1/60sec. F4



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白っぽい壁面で囲まれた銭湯はレフ要らず。撮影に使ったフレクトゴンは前玉の裏にコーティング剥がれと拭き傷があり、こういう条件だとコントラストが出ない。素性は良いと思えるので、いずれレストアして結果を報告したい。
Arsenal/Arax 60MLU + Carl Zeiss Jana Flektogon 65mmF2.8 FUJICHROME ASTIA100F Exposure Data:1/60sec. F4+1/2



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実戦状態のハッセルブラッド500C/M。画面左からベローズシェード(蛇腹式レンズフード)、プラナーC80mm、500C/Mボディ&ピントフード、A12フィルムマガジン。この個体は70年代後半の製造だが、メッキ類は今も新品と変わらぬ輝きを放つ。Cレンズ後期からレンズ鏡胴に記されたシャッタースピード数値はシルク印刷(初期は刻印だった)に変わり、この個体に見られるように手ずれで剥げ落ちることが多い。ライカと同様、70年代以降のハッセルは製造コストを意識せざるを得なくなったのだ。

スクエアフォーマットの誘惑 #8

 ハッセルブラッド社が初代「1600F」を完成した時点で、システムの拡張性をどこまで考慮していたか、すなわち「どこまで将来を見越していたか」それは明らかでない。というのは、当初のシステム構想はいくつかの点で修正を余儀なくされたからだ。まあその点は後で触れるとして、1600Fというカメラの成り立ちと、その背後に見え隠れするハッセルブラッド社のビジネス戦略を、すこし詳しく見てみよう。
 1600Fは基本的に現在のハッセル(同社では最近「Vシリーズ」という呼称を与えた)の200系シリーズとほぼ変わらない基本構造を持っている。中心になるのはミラーとシャッター駆動機構を収めたボディで、カメラとして機能させるにはこれにレンズとファインダーとフィルムマガジンを装着する。こうした機能部品はただ単に取り外しができるだけでなく、目的に応じて別の機能を持たせたパーツを装着することで、カメラの形態を大きく変えることが可能となる。
 1948年の登場時にレンズやファインダーの交換機能はさほど目新しくもなかったけれど、フィルムマガジン交換は斬新だった。120フィルムで6×6のスクエアフォーマットだと連続撮影枚数は合計12枚*。その当時これを不満とするひとたちがどれだけいたかは不明だが、数値上は確かにライカ判の小型カメラに見劣りがする。この撮影枚数の限界をマガジン交換で克服したハッセルは、その機能性で世に受け入れられたのだろうか?
 これは想像の域を出ないが、当時の社会の実状をよく考えてみる必要がある。ライカ判との比較などあくまで数の上での話で、フルマニュアル操作の中判カメラでの撮影手順(ライカ判とまったく異なる手間と集中力を撮り手に要求する)を考慮すれば、さほどのアドバンテージはないともいえる。自動化が進んだ現代の中判カメラはまるでコンパクトカメラのようにサクサクと撮れるけど、それが実現したのはここ十年の話である。
 また今では当たり前のように行われる「撮影途中における異なるフィルムの使い分け」にしても、カラーフィルムが特殊な存在だったその当時では、いささか一般性に欠ける「机上のメリット」だったように思える。のちに米国で拡販に成功したエキザクタ一眼レフなど、1950年代の製品にもフィルムカッター(撮影途中のフィルムをカメラ内で切断して現像できる)を内蔵していたのだ。
 もちろん一部の写真家からはこうした機能への要求があったのかもしれない。だがいずれにせよ高価なフィルムを湯水のように消費する撮影スタイルなど、すくなくとも戦後3年を経て戦禍の癒えぬ欧州では夢のような話だったはずだ。
 ではハッセルブラッドはなにを目指してこのカメラを設計したのか。それは来るべき大量消費の時代と、それを可能にするパワーを持つ国での「商業写真の隆盛」を見越してのことに違いない。フィルムが印刷メディアの原稿として大量に消費される社会。彼らが夢見たその消費の中心地こそ、1600Fのデビューの場である米国ニューヨーク市だったのだ**。

●モデル:脊山麻理子


*注1:かつて中判のロールフィルムには多数の規格が存在したが、現在は120とその長尺版の220フィルムのみが生産されている。220は120から裏紙を取り除いて同一径に巻いたもので、生産開始は1965年(つまりハッセルブラッド1600Fの時代にはまだ存在しなかった)。

**注2:ところでハッセルブラッド1600Fが登場した当時、同社のビジネス戦略の案件として「カメラのイメージからドイツ色を一掃することが重視された」とする説がある。戦前の高級カメラ製造の分野でドイツは他に抜きんでた存在だったが、米国のカメラビジネスはユダヤ系移民が多く関与していたからだ。戦後間もない頃の対独感情を考慮して、ハッセルブラッド社は交換レンズに自社とつきあいの長い米国コダック製を選び、中立国スウェーデンのイメージを前面に打ち出したという。この説の真偽は不明だが、1948年の時点でドイツの光学産業はまだ戦禍から立ち直っていなかったから、交換レンズの円滑な供給は不可能だったのかもしれない。


2004年06月16日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部