* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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この日の特別ゲストは西独フォクトレンダーのノクトン。名設計者トロニエの手になる名品で、1953年(M3の前年)にプロミネントの標準レンズとして登場した。同一の光学設計でライカ・スクリューマウント版も供給されたが、数が少なく市場では法外な値札が付いている。幸い日本製のアダプタでプロミネント用が旧コンタックスに装着できるようになり、この美しい描写を手軽に愉しめるようになった。
Contax IIa + Voigtlander Nokton 50mmF1.5 FUJICOLOR New Pro400
(C)Keita NAKAYAMA



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左からコンタックスIIa“カラーダイヤル”、ライカIIIg、ライカM3。こうして並べるとM型ボディの大柄さは一目瞭然、高度なファインダーを収めるためとはいえ、そこには戦前コンタックスのサイズが免罪符として用意されているように思える。IIIgの賑やかな軍艦部(デザインは美しいが)に比べるとM型はずっとシンプル、ただしコンタックスのそれはさらに機能主義的だ。ところでライカのボディはシリアルで生産年次を追うことができ、写真のM3は1959年製。IIIgは最初の生産年である1956年製で、この年3番目のロット(合計5520台)の最後から17番目の番号が刻印されている。コンタックスにはそういうアメニティなどもちろん用意されない。




好きなカメラ、嫌いなカメラ #7

 戦後型コンタックスがライカに歩み寄ったのは、先に触れたように企業の東西分裂による体力の衰えが原因とされる*。戦争という名のごたごたが終わって、人気球団は巨大資本に買収された。買い損ねた投資家たちは地団駄踏みつつもスタープレイヤーを引き抜き、新たなチームを結成する。スタメンはどうにか揃えたけれど球場はペナントレースに狭すぎ、そこにはシャワールームも練習場もなかった。

「大丈夫、このメンバーならお客さんは来てくれる。とりあえず試合をやろう」

 ゲームをやらない球団といっしょで、製品を造り、前に進まないメーカーに存在理由はない。まして異常ともいえるR&Dレシオの高さで名を馳せたツァイスならなおさらだ。技術による前進、それには工場の拡張や研究開発の再開が必要で、手っ取り早く売れるカメラはキャピタル強化に欠かせない戦略商品なのだ。
 そこでツァイスは「とりあえずビール」じゃなくて戦前のジャバラカメラの製造をとりあえず再開したのだが、もはやブローニーフィルムを用いるカメラの量販は見込めない。時代はコンパクトな35mmカメラを求め、特に戦後の好景気に沸く米国では宿敵ライカがシェアをますます伸ばしていた。一刻も早くコンタックスを蘇生させなければ……。
 こうしてツァイスは急ごしらえのカメラを造りあげた。すぐにお金を稼ぐ手段として、戦前型コンタックスで不評だった点(実はその点にこそこのブランドのアイデンティティがあった筈なのだが)は改められ、マーケットの要望を採り入れた戦略商品として企画されたのが「コンタックスIIa/IIIa」である。戦前型と共通部品をほとんど持たない両機は、ほぼ完全な新設計であるにもかかわらず、型式名に改良型を示すaの小文字が加えられただけだった。

 思うに、彼らが胸を張って「コンタックスIVおよびV」の名を与えなかったことにこそ、このカメラの本質がある。バルナックライカとほぼ同寸に縮小された外寸、短縮された距離計基線長、ライト&スムーズな操作感覚。これはコンタックスの進化形ではなく、写真術を未来に導く道具でもない。「技術者の手すさびみたいなものです、そのへんの事情はどうぞご理解の程を」と、ぺろっと舌を出しながら作られたカメラ。
 だから戦後型のコンタックスは駄目な機械なのか。いやいやそれがそうともいえないところに、カメラという道具の面白さがある。

●モデル:野口早依子


*注:戦後の西側ツァイスはほとんどゼロに近い状態からの再出発を余儀なくされた。同社のヘッドクォーターをはじめ研究施設や生産設備の大半、そしてなにより人的資源のほとんどは東独領ドレスデンとその周辺に集まっていたからだ。西側ツァイスが光学機器製造の再開に際して利用できたのは米軍主導で東側を離脱した84名のエンジニアと43名の光学硝子技術者(傘下のショット社に在席)、そしてシュツットガルトのイコンタ製造ラインだけであった。


2005年03月09日掲載

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