* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


写真
---> 拡大表示

「深川日和」その1。雲ひとつない快晴の午後に。こういう条件ではM型ライカのシャッター(不変の最速1/1000秒)が恨めしく思えることもある。
Leica M5 + Summicron 50mmF2 / FUJICHROME Astia100F
(C)Keita NAKAYAMA



写真
---> 拡大表示

「深川日和」その2。木漏れ日はリバーサルに厳しい条件。いつもなら単体露出計の出番だがM5の内蔵露出計で背景の輝度差を測り、慎重に立ち位置を決めた。部分測光の信頼性を実感する場面。
Leica M5 + Summicron 50mmF2 / FUJICHROME Astia100F
(C)Keita NAKAYAMA



写真
---> 拡大表示

口さがない愛好家から「弁当箱」の蔑称を与えられたM5の軍艦部を俯瞰する。巻き戻しノブは底面に移り、換わりに風変わりな意匠の感度設定ダイヤルが特等席に居座る。デザイン上のキモはボディから僅かにオーバーハングしたシャッターダイヤルにあり、これがM5に格別の操作感をもたらす。他のM型に比べレリーズボタンはボディセンターに近いように見えるが、これは錯覚。実はレンズマウントとレリーズの位置関係はM5でも不変なのだ。写真の装着レンズはズミクロン35mm第三世代、通称「7枚玉」。
(C)Keita NAKAYAMA

『ライカとナチュラな日々 #5』

 写真趣味と写真機趣味の相克を主題に、ライカとナチュラSをキャスティングした本稿だが、論を進める前にしばらくM5のことを記しておきたい(ナチュラSの作例は随時掲載します)。個人的にあまり得意でないライカ論も、こと本機に関する限りは興味が尽きないからだ。
 なぜそうなのか、といえばこのカメラのポジションがある。歴史的な流れのなかでの「立ち位置」と言ってもいい。今でこそ一定の評価を得ているものの、ライカM5はいったんは「失敗作」の烙印を押されたカメラなのだ。そして僕は勝ち組より負け組の方が好きなのである。人は失敗からしか学べないというが、某局の人気番組のように成功を美談で飾るのはどうも嘘くさくて苦手だ。

 すでに記したように、M5誕生の背景には高級カメラビジネスにおけるライツ社の地盤沈下があった。エポックメイキングなM3とその改良型で激動の60年代を生き抜いた同社も、70年代を迎える頃にはマーケットで苦戦を強いられていた。これにはふたつの理由がある。
 ひとつは西ドイツの国内事情で、戦後に奇跡的な経済復興を果たした同国も60年代に入ると慢性的な労働力不足が一気に顕在化した。職能技術者の育成を目的に伝統的なマイスター制度を法制化(1953年)するなど、欧州随一の工業力は堅実な政策により復活したけれど、賃金の上昇は生産性を上回るペースで進み、これが深刻なコストインフレを引き起こす。
 輸出好調な工業分野でも自動車などは製造と組み立ての自動化が早くから進んでいた。だが部品の精度と集積度がずっと高いカメラではそうはいかない。M型ライカはその最たるもので、ファインダーやシャッターなどの機構設計は熟練工による組み立て調整を前提としており、その基本はオスカー・バルナックの時代から大きく変わっていないのだ。これはすなわち生産の合理化が容易にできないということである*。
 生産規模の拡大を目論んでも労働力の調達には限界がある**。台数を増やせないならコストアップ分はすべて製品価格に上乗せするしかない。いかにライカが高級カメラブランドとして不動の地位を築いていようと、またドイツマルクが固定相場で手厚く保護されていたとしても(実際には71年の変動相場制移行までに数度の切り上げを余儀なくされた)製品価格の設定には上限というものがある。
 M5登場以前、ライカの売上はこうして下降の一途を辿っていった。


※制作協力:脊山麻理子

*注1:M型ライカの歴史を「コストダウンの歴史」と見る識者は多い。名機M3にしても初期と末期では内部機構に多くの異同があり、その大部分は工程の簡略化による製造コストの引き下げを目的とした改変という。コストセーブの流れは(当初より廉価版として企画されたM2は別として)M4やM6にまで及んでいるが、同一の基本設計を持つカメラをここまで造り続けたライツ/ライカ社の努力を称えるべきだろう。

**注2:昭和37年に発表された我が国経済企画庁の分析によれば、61年のマルク切り上げ後も西ドイツの労働力不足はむしろ激化したという。これは労働時間の短縮と東ドイツからの難民途絶が原因で、後者については「52年〜62年の就業者増加数600万人のうち約25%にあたる150万人が東独難民によって占められていた」としている。


2005年07月13日掲載

<--Back     Next-->



Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部