* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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「深川日和」その3。都心で気持ちよく空が抜けた絵を撮るのは難しい。
FUJIFILM NATURA-S + Super EBC FUJINON 24mmF1.9 /FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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移動中に光を見つけて撮る。
Leica M5 + Summicron 50mmF2 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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ライカMシステム中最高の? 飛び道具、ヴィゾフレックス。戦前のPLOOTに端を発するレフレックスハウジングで、反射ミラーを外付けにすることでRF機が苦手とする接写および長焦点レンズの運用が可能となる。写真のIII型は1963年に登場した最終型(後に背の高いM5用として専用ファインダーが用意された)。M5にこれを装着すればTTL測光での接写が実現するなど「一眼レフに機能面で肩を並べる」というのがライツ社の主張。ライカには珍しく突っ込み甲斐のあるカラクリ仕掛けだ。装着レンズはカナダライツ初期の傑作エルマー65mmF3.5。
(C)Keita NAKAYAMA

『ライカとナチュラな日々 #6』

 ベルリンフィルを率いる「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンが楽団とともに二度目の来日を果たした(自身は三度目)のは1966年のことだが、この高名な指揮者は東京公演の大半を費やしてベートーヴェンの交響曲すべてを演奏してみせた。派手好きというか、いかにも演出を好むカラヤンらしい逸話である。
 このとき彼は日本にもうひとつ逸話を残している。楽団員を引き連れて免税品店を訪れ、全員で「アサヒペンタックスSP*」を買い求めたのだ。
 彼らの真意は定かでない。楽団員が帝王の気まぐれに付き合わされたのかもしれないし、ひょっとして郷里への手土産に過ぎなかった可能性もある。だが自国の至宝にこれをやられてはドイツのカメラメーカーも立つ瀬がない。60年代も半ばを過ぎたこのころ、カメラ市場における彼我のプレゼンスの差はかように明白であった。
 国内ではコストインフレに苦しみ、海外では安価で信頼性の高い日本製カメラに市場を奪われる。中小規模のメーカーは淘汰され、ほんの数年前まで孤高の地位に居座っていたライカも安穏としてはいられない。ライツ社の首脳陣はこの内憂外患に堪えかねて、かねてより懐疑的であった一眼レフの開発を許可する。
 だがライカ流の(ゲルマン流の、というべきか)完全主義を纏(まと)って完成したカメラ「ライカフレックス」は大きく重く、そして同等以上の機能を持つ日本製品と比較するのが憚られるほど高価であったため、市場での評価はまるで芳しくなかった。奇しくもその発売は先のカラヤン=ベルリンフィルが来日した1966年のことである。

 もしもこの時点でライツ社が状況を冷静に分析していたなら、彼らはシステムの発展性に乏しく製造コストの嵩む距離計連動機に見切りをつけ、時流に即した一眼レフへの転換を進めたことだろう。そしてM型ライカの型番は「4」で終わり、ライカというブランドもやがて消滅、あるいは日本製の似ても似つかないカメラに姿を変えていたことだろう。
 だが幸か不幸か(今にしてみればまったく幸いなことなのだが)経営の実権を握るライツファミリーはM型の未来を信じていた。
「一眼レフの開発は継続する。ただしライカの本流はあくまでレンジファインダー機だ。ライカの優秀なレンズ性能を完全に発揮できるカメラシステムは他にない。すなわち、今我々が必要としているのは一眼レフを超えるM型ライカである」
 時の社主、エルンスト・ライツ3世が下したこの決定は、後に誤った認識による間違った経営判断と評された。それは商業的な失敗作「ライカM5」の開発を奨励し、彼と一族の運命を変えてしまったからだ。


※制作協力:脊山麻理子

*注:アサヒペンタックスSPは旭光学(現ペンタックス)が開発した一眼レフカメラ。1960年、西ドイツ・ケルン市で開催されたフォトキナに試作品が「スポットマチック」の名で出品された。この試作品はTTL(Through The Lens=レンズを透過した光で測光する)方式であり、しかも画面の一部を測る部分測光を採用していた。64年に発売された市販型SPは一般的な平均測光に改変されたが、何故か軍艦部前面にはSPOTMATICのロゴが残されていた。


2005年07月20日掲載

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