* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


写真
---> 拡大表示

「桟橋にて」その1。35ミリレンズの画角はこういう状況で自然なパースペクティブを提示する。
Leica M5 + Summicron35mmF2 / FUJICOLOR Pro400
(C)Keita NAKAYAMA



写真
---> 拡大表示

ナチュラSの最短撮影距離は30センチ。ISO100のフィルムを詰めて被写体に寄れば快晴の昼間でも背景をボカせる。ハレ切りは事実上不可能だが、こういう光の条件でも安心して使えるのは現代レンズならでは。
FUJIFILM NATURA-S + Super EBC FUJINON 24mmF1.9 /FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



写真
---> 拡大表示

モデルチェンジの度に大型化するライカ。手前のバルナック型は僕にはやや「手が余る」サイズ、M5は延長された右手側が長すぎてフォーカシングノブの操作に違和感を覚えることもある。意匠のモダナイズとコストダウンは同時に進行し、M5では軍艦部のプレス加工やセルフタイマー/視野枠切り替えレバーの工作に簡略化が看て取れる。
(C)Keita NAKAYAMA

『ライカとナチュラな日々 #9』

 リリースされたM5にたいする当時の評価がどのようなものであったか。それは寡聞にして知らないのだけど、昨今のカメラ雑誌には「M型ライカの愛好家にはデザインが受け入れられなかった」「大きすぎて不評だった」と書かれている。おそらくそれも事実なのだろう。でもそういう記事がこのカメラを否定しているかといえば「使ってみると良いカメラだ」という論調で結ぶのが常である。
 いったいに、三十数年という時の流れは写真家の価値観をそう簡単に変えてしまうものだろうか。デザインについては好き嫌いもあるだろう。でも写真と真摯に向き合うひとはカメラの意匠には無関心を決め込むか、あるいは無関心を装うものなのだ(これは自戒と反省を込めて書いています、はい)。

 現ライカ社が米国のWebサイトを通じて発表しているリストによれば、M5の製造台数は次のように推移している。

●71年=4400台/2600台(ブラック/シルバー)
●72年=10500台/8000台
●73年=5000台/2500台
●74年=1000台/400台

 数字を観ると72年は突出して多く、翌年はその半分以下に落ちている。これは同じ年に発売された「ライカCL」の影響があったとみるべきだろう*。また74年は実質的に製造が打ち切られた年で、リストの区切りも4月である。
 もちろんこの数字を最盛期のM3(年間製造台数は3万台以上を記録した)などに比べれば、M型ライカ人気の翳りは隠せない。だが前任者たるM4の年産数が1万台前後で推移したことに照らせば、そして例の「ニクソンショック」に起因するドイツマルクの高騰を鑑みれば、これは充分に立派な成績といえないだろうか。M5に対する市場の評価は、けっして低くはなかったのである。
 ではなぜライツ社はM5の製造をたった4年で打ち切ったのか。

 写真機趣味に限らず、男の道具好きは問題をことさらドラマ仕立てにしたがる嫌いがある。とかく神格化されがちなライカといえど、たかだか一台のカメラである。ものごとの本質を見極めようとするなら、そのメカニズムだけでなく背景にある人のいとなみを注視すべきだ。カメラの発売を決定した経営者、設計した技術者、組み立てた職工、販売に奔走した営業担当者。そういうひとびとの思惑とはまた別に、写真とは無関係のひとたちがつくる「時代」もまたカメラの運命を左右する。
 そしてある意味、M5ほど時代に翻弄されたライカは他にないのである。

※制作協力:脊山麻理子

*注:「ライカCL」はM型ライカとレンズマウントを共用する普及機で、ライツ社が基本設計を、日本のミノルタ(現:コニカミノルタ)が製造をそれぞれ担当した。73年と74年の二年間にわたる生産の総台数は65000台。なおCLは日本国内と海外の一部では「ライツ・ミノルタCL」の銘で販売されている。


2005年08月17日掲載

<--Back     Next-->



Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部