* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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Leica M3 + Biogon 25mmF2.8ZM FUJICHROME Astia100F
(C)Keita NAKAYAMA



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Leica IIIg + Summicron 50mmF2 FUJICHROME Astia100F
(C)Keita NAKAYAMA





東京レトロフォーカス Special Edition
『アレゴリー(2)』


 恐竜に出逢うチャンスはそう多くはないけれど、痛みをともなう記憶は誰の心にもあるものだ。そういう記憶を掘り出したとき、ふと写真について考えてみた。自分はなぜ旧いカメラに惹かれるのか、それは相手に多くのものを求めていないからではないか、と。
 露出もピントも不確かで、正確な構図は決められない、巻き上げの間にシャッターチャンスは逃す。面倒な手順をなんとかこなしても、旧いレンズはどこか曖昧な描写である。すくなくとも現代のカメラを尺度にするなら、これはやはり不完全な道具でしかない。
 でも、そうやって撮影者が知恵と技術を振り絞って撮った写真には、今のカメラで撮った結果とは違う世界が写っている。なんとなくピントが怪しかったり露出がずれていたり、周辺がぼやけていたりする人物や風景。それを眺めながら、写らなかった光、写せなかった影を思う。足りない部分は記憶と想像で補えばいい。
 すべてのものが鮮明に写ってしまったら、現実はあなたの期待を裏切るかもしれないのだ。

 と、まあ、柄にもなく感傷的なことを考えてみたけれど、カメラは道具なのだからきちんと写るにこしたことはない。ちゃんと使えばちゃんと写る、それが時代を問わず良いカメラというものの条件である。
 ただし旧いカメラの多くが備える不完全性は、使い手に手順を強いるいっぽうで、どこか鷹揚な部分がある。こちらの勝手な思い込みを受け止めてくれる余白がある。
 だから僕らはそこに安寧な言葉を書き込めばいい。そうやって使い手じしんが行間を埋めていくような写真を撮ることも、人生のある場面には価値があるのだろう。

 さいきん僕はなんとなくそんなことを考えている。

※制作協力:脊山麻理子


2005年09月28日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部