* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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夢に描いたロケーションに突然出会うことがある。前に紹介した沈胴ズミクロンによる撮影。久しぶりにバルナックライカを使った。
Leica IIIg + Summicron50mmF2 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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「築地上空」おなじみ中央市場の建物はかつての鉄道駅を改装したものだそうだ。24ミリの画角にぴったり収まる風景。
FUJIFILM NATURA-S + Super EBC FUJINON 24mmF1.9 / FUJIFILM Neopan100ACROS
(C)Keita NAKAYAMA



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かつてのライツ社はカメラケースの品揃え拡充にことのほか熱心で、最盛期には各機種毎・装着レンズ毎に異なるデザインを色違いで用意していた。初期のM型用はバルナックライカ用のデザインを踏襲しており、奥に見えるIIIg用のケースと基本は一緒、つまり1930年代から続く伝統的な意匠だ。M5用はお馴染みの台形セミハードケースで、ファスナーで開閉する現代的なデザインとなる。ほとんどの広角〜標準系レンズを装着したまま収納できるが、もはや「エバレディケース」とは呼べない。カメラバッグに気軽に放り込めるコンテナとして使うべきか(他にトラッドなハードケースも数種類あった)。
(C)Keita NAKAYAMA

『ライカとナチュラな日々 #18』

 被写体は時に向こうからやって来る。来なければ自分で捕まえなければならない。必要なのは運ではなくて観察眼、そしてフットワークの軽さだ。
 こんなとき、写真趣味のひとならなるべく軽くて操作が簡単なカメラを選ぶだろう。コンパクトなデジカメも悪くない。見つけたものを素早く撮る、それには面倒な操作はなるべく端折ってしまいたい。ではなぜ写真機趣味のひとは、デカくて重くて面倒なカメラを使うのか。
「路上におけるM型ライカは素晴らしいスナップシューターである」と、これは既に語り尽くされた幻想だ。現実には「ライカでなければ撮れない写真」なんて存在しない。ライカレンズならではの描写性は確かにあるけれど、それはごく限られた条件でのみ発揮されるものだし、アガリの差異など写真の本質とはまったく別の次元の話である(と思う)。またレリーズのタイムラグの小ささにしても、そこまでの操作に必要な時間を考えれば帳消しだ。操作に手間取ればお釣りが来るどころか、下手をすると損失補填をしないといけない。
 それでもM5のようなカメラを使っていると、ある種の充足感がある。これは操作部材の感触が好いとかレリーズ音が心地良いとか、そういう話ではない。そうではなくて、ひとつひとつのプロセスを識閾下で、つまり意識と潜在意識の間で組み立てながら作業を進めていくことの愉しさである。
 思うに、こういうサブリミナルな作業というものは快楽の根源的な部分とどこかでつながっている。プラモデルを作る(組み立てる、ではなく)時に無心で作業しながら、アタマの片隅で手順を考えているのと一緒だ。写真機趣味が男性に多いのは、たぶん女性のプラモデラーがすくないのと意味は一緒だろう。

 失礼、例によって話が逸れた。ライカに限らず、マニュアル操作のカメラでキャンディッド・フォトを撮る場合、いくつかのプロセスをアタマのなかで同時に進めなければならない。たとえば路上で絵になる被写体(人物でもクルマでも動物でも)が向こうからやって来たとする。
 ここで撮影者は露出と構図とピントを可及的速やかに決定しなければならないのだが、被写体が「あるべき位置」に入ってからそれをやっていたのでは遅すぎる。そこでよくある置きピンのテクニックを使い、画面の所定の位置にピントを置いておく。その前に露出も決めてしまう。こう書くとずいぶんと乱暴な、あるいは高等な技術を駆使した撮り方のようだけど、じっさいにはわりと大まかな作業である。というか、通常のカメラだとそうならざるを得ない。
 それが、M5のようなカメラでは不思議と緻密にできる。その理由は次号にて。


2005年11月09日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部