* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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次回からの予告を兼ねて、ライカ一眼レフと超広角レンズによるポートレート。こういう条件では素晴らしい描写だが……。
Leicaflex SL + Elmarit 19mmF2.8 /FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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空の面積を大きく取っただけでハレハレの絵になるエルマリート。巨大なフードも殆ど意味を成さず、こういう描写を織り込んで絵をつくるしかない。
Leicaflex SL + Elmarit 19mmF2.8 /FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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エルマリート19ミリを装着したライカフレックスSLを俯瞰する。M型ライカ用超広角レンズ(特に初期の対称型)と比べるとその巨体は呆れるばかりで、しかも性能向上には必ずしも結びついていない。加えてボディ側にも問題があって、この組み合わせは実用にかなりの困難を伴う。それを承知で使う意味はあるのか、というお話は次回以降にて。
(C)Keita NAKAYAMA

『ハレ、時々クモリ #8』

 写真機材が増えると、どうしても出番のすくないカメラやレンズが出てくる。
 べつだん描写や操作感触が気に入らないわけではない。ただなんとなく優先順位が低いというか、その物品を持ち出す動機付けが弱いのである。考えてみれば罪な話だ。購入時にはこういう場面でこんな写真を撮ろう、いやああいう場所に似合うだろうと、あれこれ想像を逞しくしていたのだから。
 今回のテーマはそういう「餌を貰えない釣られた魚たち」に日の目を見せよう、という邪念もあって始めたのだが、今のところ予定していた機材のごく一部しか使えていない。一度の撮影に携行できる機材は限られているためでもあり、写真機材はじっくり付き合わないと本質が見えてこないという言い訳もできる。

 今回いろいろなレンズを使って思ったのは、カメラに対してレンズはいつも弱い立場にある、ということだ。常にあらゆる条件で性能を発揮することが義務づけられているというか、「こういう場面では使わないでください」というエクスキューズを許さない風潮があって、これは僕ら使い手側に責任がある。レンズの個性というのは、弱点の裏返しとして成立するものだからだ。
 だから旧いレンズの性能が今の物品に比べて劣っていたとして(劣っているのが普通だ)、使い手はそれを長所に見立てなくてはいけない。短所を補うのではなく、欠点を逆手に取って撮り方を考える。新たな写真表現と呼ぶほどのものではないかもしれないけれど、これも一種のゲームとして考えれば、ルーティンに陥りがちな撮影行にもっと別のひろがりが出てくるような気がする。

 いやその前に、旧いレンズは最新のそれに比べて劣っているのだろうか。もちろん子細に観察すれば違いはある。それは解像度とかカラーでの発色、モノクロの暗部の締まりや明部の階調感、そして像が立ち上がってくる立体感(これはコントラストとは必ずしも一致しない)などの違いとして現れる。ただし解像度と立体感を除けば、他は感材や後処理でカバーできることが多い。
 明らかに違うのが逆光時の耐性だ。これは古典レンズに大袈裟なフードをつけようが逆立ちをさせようが、コーティングが強化された最新の製品に敵わない。特に旧いレンズには内部が汚れて、あるいは硝材が劣化して曇りを生じている物品もすくなくない。こういうレンズは傷玉といっしょで逆光に殊のほか弱く、酷い場合は像の一部が消失してしまう。
 でも、それも個性のうちである。安い傷玉曇り玉を見つけて、いつかレストアするつもりで使いはじめる。その描写が気に入ったら、そのままの状態で使うのもいい。今日びクッキリスッキリのレンズは巷にいくらでも溢れているのだから。
 花霞の季節にはまだ遠いが、偶にはハレハレ描写を愉しむのも悪くない。

※次号よりこの項の続編としてライカフレックスSLとちょっぴりスペシャルなカメラを採り上げます。

※制作協力:脊山麻理子



2006年01月25日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部