* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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暮れなずむ有楽町。この場所は八重洲口まで一気に「抜けた」背景がとりわけ美しく、中望遠の画角がちょうど良くフィットする。絞りを開けすぎたのはSLのファインダーで後ボケがもっと小さく見えるため。
Leicaflex SL2+ Summicron 90mmF2 / FUJICOLOR SUPERIA Venus400
(C)Keita NAKAYAMA



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上掲作とほぼおなじ位置で。個人的に背景はこちらの方が、人物の表情は上の方が好ましく感じる。かといって条件が揃うまで撮り続けようとすれば夜になってしまう。
Leicaflex SL2+ Summicron 90mmF2 / FUJICOLOR SUPERIA Venus400
(C)Keita NAKAYAMA



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ズミクロン50ミリ、絞り開放。いつ使っても発見があり、いつまで使っても飽きないレンズだ。
Leicaflex SL2+ Summicron 50mmF2 / FUJIFILM Neopan400 PRESTO
(C)Keita NAKAYAMA

『サンクチュアリ #21』

 ライツ社の提携先として白羽の矢が立ったのは、日本のミノルタ(現・コニカミノルタ)である。1972年にはじまった両社の協力関係は、その翌年に発売された小型のレンジファインダーカメラ「ライカCL」で具体化するのだが、これはライツ側からミノルタへの生産委託という形だった。つまり生産コストの低減を、海外生産という手っ取り早い方法で実現したわけだ。おなじ時期にはやはり独カメラ業界の名門、ローライ・フランケ&ハイデッケ社がシンガポール工場を立ち上げているが、ライツの手法はずっとなりふり構わない印象を受ける。それだけ余裕がなかったということなのだろう。
 このカンフル剤で一息ついたライツ社は社内での一眼レフ開発を続行する。それはやがてライカフレックスSLの後継機「SL2」として登場するのだが、このカメラには思いもよらぬ運命が待ち受けていた。

 1974年に登場したライカフレックスSL2は、単純にいってしまえば「SLの正常進化形」である。それは初代フレックス〜SLの機構設計をベースに細かい手直しを加えたものであり、アップデートされた箇所は「露出計測光レンジの拡大(低照度側がM5と同様のレンジを持つ)」「露出計指針の照明追加」「焦点板の改変(センター部にスプリットイメージを備える)」「ホットシューの追加」など多岐にわたる。だが外装デザインはそれほど大きな変更を受けず、今の目でみれば「SLのマイナーチェンジ版」というな印象はぬぐえない。端的にいえば、新味に欠けるカメラなのである。
 にもかかわらず、ライツ社はこのSL2でカメラボディの骨格にあたるシャシーダイカストを新規に更新している。これには新採用の照明用バッテリーボックスの追加(露出計とは別立て)などいろいろな理由はありそうだが、上記の機能追加だけなら「何もそこまで」という気もする。シャシーダイカストの更新にはコスト的に大きな初期投下が必要だからだ。
 思うに、ライツ社はこのSL2をベースにフレックス系カメラの新たな展開を目論んでいたのだろう。これはカタログスペックとは関係のない、細部の変更点を観てもよく分かる。裏蓋開閉機構やフィルム給送部などは初代フレックス〜SLに比べて簡略化されており、コストダウンの努力が伺えるのだ。余談だが、一部に「使いやすくなった」という裏蓋開閉機構などは、僕にとっては改悪以外のなにものでもないように思える。それはもはやライツ品質ではなく、日本製の一眼レフと選ぶところがないからである。

 とはいえ、SL2は確かにフレックス系カメラとしては完成の域に近づいており、SLで問題とされた広角域でのピント合わせについてもほぼ支障がないレベルとなった。これにAE(自動露出)を積めば、同時期の日本製一眼レフに劣らぬカメラとなるはずだし、新設計されたシャシーにはその基板スペースも確保されていた筈なのだが、ライツ社の大株主ヴィルト社は非情な決断を下す。SL2が発売された74年に経営の実権を握った同社は、M5とフレックス系一眼レフの製造中止を決めたのである。これは「ライカというカメラ」の実質的な終焉を意味していた。

制作協力:クニトウマユミ


2006年08月16日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部