* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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初代フレックスとマクロエルマーで。癖のあるフレックスの焦点板だが、慣れればピント合わせも楽である。
Leicaflex + Eimar 65mmF3.5 / FUJICOLOR SUPERIA Venus400
(C)Keita NAKAYAMA



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撮ってからタテヨコを逆にしたくなった一枚。こういう場所ではストラップはちゃんと首にかけましょう。
Leicaflex + Eimar 65mmF3.5 / FUJICOLOR SUPERIA Venus400
(C)Keita NAKAYAMA





『サンクチュアリ #22』

 ライツ社がフレックスSL2の製造をわずか3年(実質的には2年ほど)で打ち切った理由は単純だ。それは設計陣の努力にもかかわらず、ビジネスになり得ない商品だったからである。確かにコストダウンの努力は伺えたが、あの時代の西ドイツでライカのようなカメラを造る限り、どうやっても採算ベースに載せることは無理だった。そして、たかだか一台のカメラに、ライカのような品質を求める顧客も減る一方だったのだ。
 それから先のライカ一眼レフの消息ついては、よく知られている通りである。R3にはじまる系譜はフレックス系とはまったく別の(僅かにマウントと絞り伝達機構のみを共用する)カメラであり、それらは日本製のカメラをベースとしていた。具体的に記せばSL2と入れ替わりに登場したR3はミノルタXEを、その後継機のR4からR7まではミノルタXDのシャシーとメカニズムを基本としている*。この混血シリーズは1996年に純粋なライカ製一眼レフ「R8」が登場するまで、ほぼ二十年にわたって継続されたのだった。

 では、結局のところライカフレックスという一連のシリーズとは何だったのだろう? それらは歴史に遺るカメラたちだったのだろうか。あるいは「偉大なるバルナック型とM型」を創りあげたメーカーの、数少ない勘違い、または読み違いだったのか。
 その答えは僕にはよく分からない。もしかすると十年後には見えてくるかもしれないし、死ぬまで不明のままかもしれない(理解した、了解したと思っても、勘違いであることが多いのだが)。ただひとつ確かなことは、これら一連のカメラたちが、すでに「過去のカメラ」であるということだ。それらは一世を風靡することもなく、メジャーな活躍の場を得ることもなかった。そしてどんなカメラであれ、それが工業製品である以上は、ビジネスの結果は既に出てしまっている。フレックス系カメラは単純な商売としてライツ社の利益につながったことは、おそらく一度もなかっただろう。有り体に言えば、明らかな失敗作だったのだ。

 だが、そうした世俗的なことも今となっては過ぎた話である。今僕の目の前に置かれた三台のカメラは、それぞれに佳き時代の工業製品として光を放っている。そういうフレックス系ライカの魅力について、ふと思ったことがある。それは現代のカメラでは得られない、豊かな時間を一緒に過ごす道具だということだ。
 妙な喩えだが、ある昼下がりに、窓から外光が注ぐ床屋に赴いたとしよう。初老の理髪師が太い柄のブラシで石鹸を泡立て、頬と首筋に優しく塗り、革のベルトで研いだ長い剃刀の刃をおもむろに肌にあてる。しばし後、分厚い蒸しタオルで拭われた剃り跡は、ちょうどよく一皮剥けた心地良さだけが残る。
 フレックス系ライカを使うという行為は、言ってみればそういう贅沢にも似ている。一枚刃より二枚刃、いや三枚四枚と進化していく剃刀のような現代のカメラとはまったく違う操作感触。たかが道具、だがそんな妄想を与えてくれる道具が造られなくなってどれくらいになるだろう? いやその前に、床屋でゆっくり時間を過ごさなくなってどれくらいになるか、それを考えた方が良いかもしれないのだが。

制作協力:脊山麻理子

*注;これはちゃんと書いておかなければいけないことだけど、R3〜R7に至るR系ライカ一眼レフたちは「ミノルタカメラのOEM」ではない。あくまでミノルタ製の骨格をベースにライツ流の改変と味付けを施したカメラたちであり、製造も欧州の(ドイツおよびポルトガルの)ライカ社が担当している。そして時代が下るほどライカの独自性が強くなっており、90年代にはほとんど別種のカメラになっている。つまり日本製とは血縁関係はあっても、氏素性はやはり別のものである。


2006年08月23日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部