* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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レンズに意地悪をしているわけではありません。
Pigeon 35+ Tomioka S-Lausar 45mmF3.5 / FUJICHROME ASTIA100F
(C)Keita NAKAYAMA



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上の画像の中心部を拡大。ネガで撮ればもっとコントラストは出せるけれど、このハレ描写は捨てがたい。
Pigeon 35+ Tomioka S-Lausar 45mmF3.5 / FUJICHROME ASTIA100F
(C)Keita NAKAYAMA



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自己主張の強いウェルタ・ウェルチーニ2(1939年)と大人しい鳩。背景も思想も時代も異なる両機だが、チャージレバーの扱い(どちらもセルフコックを装備しない)など操作感覚はちょっと似ている。シンプルで誰にも扱いやすいピジョンに対し、凝った操作系のウェルチーニが操作ミスを許さないのは国民性の違いだろうか。シュナイダー製クセナーはご覧のようにノンコート、ただし反射防止膜を持つSローザよりもずっと逆光に強い。これは蛇腹カメラに共通した内面反射の少なさによるものだろう。
(C)Keita NAKAYAMA

『鳩によせて ー或る戦後国産カメラの物語ー #6』

 戦後の日本カメラ産業が占領軍によって育てられたというのは、皮肉ではあるが事実である。国産カメラはのちに輸出の重要品目として外貨を稼ぎ出すのだが、すくなくとも昭和二十年代の半ばまではPXの人気商品か、あるいは「見返り物資」(国内で不足する食料品などの輸入品に対して提供される物品)のひとつでしかなかった。早い話が、国と国が取り決めた物々交換の一部だったのだ。
 ところでこの時代までの国産カメラとは、はたしてどういうものだったのか。日本は戦前からいくつかのメーカーが独自のカメラを開発していたし、戦前と戦中を通じて軍需用の光学機器を手がけるメーカーも多かった。つまりカメラの設計製造に必要な技術はほぼ蓄えられていた。戦時中に途絶えた民生用カメラ製造も、人材と物資さえ確保できればすぐに再開できただろう。
 とはいえこれは一部の大手企業や中堅どころまでの話で、零細な業者には独自開発のノウハウも、生産に必要な加工機械も、いや下手をすると在庫を保管する倉庫もない。それで四畳半工房よろしく、あちこちから部品をかき集めて組み立てるガレージ規模のアッセンブルメーカーが登場するのだが、ことがそう簡単に運んだとは思えない。
 まず問題なのは部品の調達である。現代のパソコンのように、アマチュアがアキバで汎用の規格品を買い込んできて、シャシーに組み込んで動作させるみたいなことができたのだろうか。そもそもカメラの汎用部品なんてものが、そこかしこに存在していたのだろうか。
 そしてもうひとつ、出来上がった製品をどう売りさばくか。四畳半工房にはとうぜん営業マンを雇う余裕などなかった筈だし、中堅どころにしても国内の需要はまだ限られていた時代である。販路はいったいどうやって確保していたのか、サービス体制は?
 実はそのあたりのヒントが、ピジョンというカメラブランドにある。

 ピジョン35は昭和二十七年頃に、東京・京橋のエンドー写真用品が発売したと前に書いた。その後に入手した資料によれば、製造は八州(ヤシマ)精機ではなく、おなじ信州にあったカメラメーカー、信濃光機であるという。同社は「ラコン」という独自のブランドをのちに展開するのだが、それ以前の製品販売はエンドー写真用品に任せていたらしい。
 ところで昭和二十七年といえば、あのレイモンド・ローウィがデザインをやり直した両切りタバコ「ピース」発売の翌年にあたる。そしてこのおなじ年、連合国と日本との間で平和条約が締結され、GHQによる日本占領は終わりを告げる。

制作協力:脊山麻理子


2006年10月25日掲載

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