* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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隠れ家のようなレストランの一角を借りて撮影。画面右側から入る自然光が壁面に美しいグラデーションを描いていた。
Pigeon 35+ Tomioka S-Lausar 45mmF3.5 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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上掲作の中央部を拡大。ご覧のようにピントはけっして悪くない。
Pigeon 35+ Tomioka S-Lausar 45mmF3.5 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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過日の夜間撮影セット。フラッシュガンはSunset Model 500という製品で、いぜんにeBayで落とした別のカメラにオマケで付属してきたもの。米ペンシルヴァニア州シルヴァニア社謹製のM級バルブ2ダースといっしょに手元に届いたのだが、フラッシュガン自体は日本製だった。造りからしておそらく昭和三十年代の製品だろう。今では絶滅危惧種に近い閃光電球、じつは現在のストロボよりもずっと大きな光量が得られる(ただしバルブは使い捨て。昔の写真趣味はお金がかかったのだ)。
(C)Keita NAKAYAMA

『鳩によせて ー或る戦後国産カメラの物語ー #7』

 戦後に雨後のタケノコよろしく無数に穂先を出したカメラメーカーたちは、それぞれに背伸びをしながら成長していった。これは日本だけのことではなく、他の敗戦国、つまりドイツやイタリアも同様である。
 なに、ドイツはともかくイタリアのカメラだって? と、イメージが湧かない方も多いかもしれない。いゃあ旦那、じつはこれが宝の山で、というような話は例によって別項に譲ります(先送りばかりでいつになったら実現するのか、叱咤のメールはトップページの「ご意見・ご感想」をクリックしてお寄せください)。

 ところで、なぜ戦争に負けた国でカメラが大量につくられたのか。歴史をあたりまえのように受け入れていると違和感がないのだけれど、よく考えると不思議である。戦勝国との製造コストの差(というより賃金格差)は大きかったにせよ、もっと別の物品でも良かったのではないか。
 戦後のものづくりがメカニカル・グッズに集中したのは、敗戦国にじゅうぶんな機械加工と製造技術の基盤があったからである。どの国も自前の戦車や戦闘機や戦艦をつくっていたのだから、爆撃で落ちた屋根や崩れた壁をかたづければ大型の機械製品で外貨を稼げたはずだ。兵器は印象が悪いから、カタログに載っけるのはもっと平和的な、そう旅客機やトラックや商船にすればいい。
 だがそういう工場は占領軍の方針により、製造能力を注意深くかつ徹底的に奪われていた(兵器産業に容易に転用できる技術を根絶やしにするためだ)。日本のおもだった軍需工場でも工作機械は根こそぎ撤去され、戦後賠償の一環としてアジアの国々に送られたという*。つまり敗戦国の重工業は、戦後いったん白紙に戻されたのである。

 大型の機械がつくれないなら、小型で付加価値の高い製品をなるべく高く売ればいい。付加価値は機構の独創性や工作の緻密さでいくらでも吊り上げられる。といってもあまりに精密な機械、たとえば腕時計みたいなものは熟練工の繊細なワザが不可欠だから、ごく一部の製造現場でしか対応できない。もっとフツーの工場でもつくれて、既存の技術をうまく利用できて、しかもイメージが鳩のように平和的なものは?

 その答えがカメラだったのは、これは時代の必然とも偶然ともいえる。なにしろ戦前にはおもにお大尽の玩具かプロの道具だった写真機である。あちこちの工場がいっせいにつくったら、あっという間に市場が飽和してしまうはずだ。そうならなかったのは戦勝国(現実にはアメリカただ一国)の消費のパワーが並はずれていただけでなく、戦後に生じた経済格差によって安価で品質の高いカメラが大量に供給され、これが写真趣味を一気に大衆化させたからである。
 これには大小の民間工場それぞれの努力もあったのだが、産業界の舵を取るひとたちの思惑も作用していた。戦後日本のカメラ産業は国策でその振興が図られたからである。


制作協力:クニトウマユミ
撮影協力:西八王子「野鴨の家」


*注:昭和二十年十一月に来日したエドウィン・ポーレーの使節団は軍需工場の生産施設を詳細に調査し、連合国はその報告をもとに生産設備の賠償撤去計画を策定した。このプランは必ずしもスムーズに実行されなかったようだが、その裏にはマッカーサー率いるGHQとの思惑のすれ違いがあったらしい(GHQは自らが推進する日本の戦後民主化には適度の経済力が必要と考えていた)。なお比較的小規模の製造設備は平和産業育成のため意図的に残され、その一部は戦後日本のカメラ産業を支える生産の基盤となった。


2006年11月15日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部