* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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Sローザのハレっぽい描写がよく似合う裏道。銀座も旧い建物がすくなくなった。
Pigeon 35+ Tomioka S-Lausar 45mmF3.5 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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こちらはスーパーバルダマチック。レンズのイメージサークル内に光源があるためやはりハレっぽいが、絵の厚みは上のトミオカよりも深くずっと大陸的だ。
Balda Super Baldamatic I + Color Baldanar 45mmF2.8 / FUJI COLOR Natura1600
(C)Keita NAKAYAMA



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ピジョン35とスーパーバルダマチック。前者はフルマニュアルの、後者は絞り優先AEを搭載したファミリーカメラだ。こうして並べるとまるで時代が違うカメラに見えるが、両者の時間的な隔たりは7年ほどしかない。この僅かな間にカメラは電気の力を借りて自動化を成し遂げ、日本はその競争に打ち勝った。だが戦後の日独カメラ産業は(すくなくとも工業デザインの分野では)まったく別の方向を向きながら発展していったのだ。
(C)Keita NAKAYAMA

『鳩によせて ー或る戦後国産カメラの物語ー #10』

 例によってカメラと別の話で恐縮だが、クルマ趣味の世界には“Kit Car”という言葉がある。現実に公道を走れるクルマが実物大プラモデルよろしく部品で届き、ユーザーはそれをガレージで組み立てて実用に供するというものだ。発祥の地は戦後の英国で、かのロータスなども昔はこのフォームで売られていたという。
 クルマにしても庭にしても、日常のなかの対象を趣味の領域にワープさせるのは英国人の得意とするところだけれど、こういうことがまかり通るにはふたつの要素が不可欠だ。それは端的にいえば気の長さと産業の厚みである。
 たとえばクルマを構成する部品など、とても1社や2社でまかなえるものではない。機械加工や皮革加工、ガラス工場や電機工場、それに石油化学産業など、数多くの分野にまたがる製造現場に部品を発注しなければいけない。つまりキットカーができた背景には、町工場レベルでの分厚い製造業の下支えがあったということなのだ。

 製品のサイズと精度にはおおきな隔たりがあるけれど、カメラの分野にも似たようなところがある。写真を撮るために必要な部品をおおまかに分けると、それは暗箱とレンズとシャッターの三つである。戦後のカメラではこの三つは鋳物とガラスとプレス部品が主体で、カメラメーカーがすべての加工を自社で賄うことは稀だった。
 カメラのような製品は機能と写りの結果がすべてなので、部品の内製率の高さなどはあまりジマンにならない。だから規模の大小こそあれ、たいがいのメーカーは部品を外注に出すのが普通で、特にシャッターとレンズは社外の汎用品が多く使われていた。
 戦前戦後のドイツ製カメラをみても、レンズにはツァイスやシュナイダー、シャッターにはコンパーかプロンターの文字が刻まれているものが多い。こうした主要パーツは一種のブランド品で、製品の性能や信頼性といったイメージに直結していたから、カメラメーカーと部品メーカーに位の差はあまりなかったのだろう。
 いっぽう日本のカメラ産業はどうだったのか。今ではカメラに製造元以外のブランドが刻まれることは稀だけれど(レンズにはありますね)、昔は外注品の露出比率がもう少し高かった。セイコーやコパルなどのシャッターは立派なブランド品だったし、ニコンやトプコンなどのカメラメーカーも自社のレンズを他のカメラに供給していた時代がある。
 ではピジョン35はどうだろう。このカメラは東京のエンドー写真用品が信州の信濃光機に発注したもので、製造元の刻印はどこにもない。だが鏡胴にはシャッターを担当したNKBの、そしてレンズ周辺にはTOMIOKAの文字が刻まれている。NKBについてはまだよく分からないけれど、どうやら長野の時計産業と関係がありそうだ。そしてトミオカのレンズは、その後の日本のカメラ史におおきな足跡を残している。

制作協力:クニトウマユミ


2006年12月20日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部