* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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順光で絞り込めば圧倒的な描写のヤシノン40ミリ。戦後三十年、日本の光学産業はこういうレンズを安価なファミリーカメラに載せるまでに成長した。
Yashica Electro35GX + Color Yashinon 40mmF1.7 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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カラー再現も素晴らしい。このレンズ、ライカマウントに改造できないだろうか。
Yashica Electro35GX + Color Yashinon 40mmF1.7 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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借用中の一眼レフ用ヤシノン50ミリで。やはり素晴らしい描写だ。(レンズ提供:正木 正氏)
Asahi Pentax ESII + Auto-Yashinon DS-M 50mmF1.7 / FUJICOLOR NATURA 1600
(C)Keita NAKAYAMA

『鳩によせて ー或る戦後国産カメラの物語ー #13』

 おなじ富岡光学製のレンズつながりで、このところピジョン35とヤシカ・エレクトロ35をよく持ち歩いている。もちろん両機のあいだにはおよそ二十年ほどの時間差があるから、一緒くたに論じるのは無理がある。おなじ時間軸をライカに嵌めてもIIIfとM5くらいしか違わないけど、日本製大衆カメラの違いはそんなもんじゃない。それはジュラ紀とルネサンスくらい別次元の話である。
 失礼、ジュラ紀は言い過ぎでした。

 今の時代、この両機を併用して異次元ぶりに面白がる人間なんて、そんなにいないかもしれない。ふたつのカメラは機能や性能以上に、趣味の道具として属する世界が違うからだ。昔ながらの大判カメラをメタライズ&ダウンサイズしたようなピジョンに対し、電気の力で露出制御を自動化したエレクトロ35は、もうすでに電子機器の一族に序せられるポジションにある。
 そんな両機に無理を承知で共通項を探すと、そこには「時代の節目と割り切り」というキーワードめいたものがあぶり出されてくる。

 エレクトロ35は分かりやすい。そこには撮影操作の自動化という大儀があったから、電子回路の支援による撮影操作の省略と露出表現の放棄も、新時代の香りとともに受け入れられた。いっぽうピジョンにおけるそれは、端的にいえば機械工作技術の節目であり、コスト意識による撮影支援機能の割り切りだ(ピジョンがメジャーになれなかったのはこの割り切りの所為だと思う)。いろいろあるけど、ここでは機械工作について考えてみよう。
 ピジョンが企画設計された昭和二十七年頃といえば、ちょうどカメラ業界に生産方式の合理化がひろがる直前にあたる。というより合理化の概念を採り入れるちょっと前、といったほうが正しいか。
 よく知られた話だが、国産カメラの飛躍的な質的向上は、官民一体の体制でもたらされた。これにおおきな役割を果たしたのが「輸出検査」という法制度らしい。つまりお役所とメーカーが共同で、「一定の品質基準を満たさない製品はこの門から外に出ることまかりならん」、という関所をつくったのだ*。目的はひとつ、メイドインジャパンの声望を貶めないためである。
 製品の質が生産の合理化によって向上する、という概念は、たぶんそれまでの日本にはあまり無かった。戦前戦中の日本の工業製品は、おもに職人や職工の手作業によって支えられてきたからだ。そういう手法の結果として、部品箱には成り合わざるパーツが山となり、組み上がった製品は一台一台がビミョーに異なる、というのは前にも記した通り。
 これが初期のM型ライカなどでは、この違いに目を細めるひともいて、なにが正義だか分からなくなるけれど、当時の(そして今も)日本がつくろうとしていたのはそういうカメラでは無かったはずである。日本のカメラ業界における錦の御旗は、常に大衆の頭上に翻っていたからだ。

※制作協力:クニトウマユミ

*注:輸出検査そのものの概念は旧くからあり、その起源は1895年の生糸検査に遡るという。戦後には真珠やカメラなどの輸出産業に広がり、1957年には多分野を包括する法制度となるが、二十世紀の終わりにはほぼすべての制度が撤廃されている
●参考文献:日本カメラ産業の変貌とダイナミズム(竹内淳一郎氏・他著、日本経済評論社・刊)


2007年02月14日掲載

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