* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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前回に引き続きヤシカSLR標準レンズで。本当はもう少し絞った方が絵に深みが出る。つい開けてしまうのは撮影者の底が浅いからである。(レンズ提供:正木 正氏)
Asahi Pentax ESII + Auto-Yashinon DS-M 50mmF1.7 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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本題のピジョンを忘れたわけではありません。鳩カメラ最後のカットは次号にて。
Leicaflex SL2 + Summicron 90mmF2 / FUJICOLOR Reala ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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このモデルさまについては近々報告します。
Leicaflex SL2 + Summicron 90mmF2 / FUJIFILM Neopan100ACROS
(C)Keita NAKAYAMA

『鳩によせて ー或る戦後国産カメラの物語ー #14』

 昭和二十年代の終わり頃から本格化した生産の合理化は、日本のカメラ産業を一変させた。それまでの板金加工や旋盤、低圧プレスによる「職人の手づくり」から精密金型を使った鋳造、高圧プレス、そして樹脂製品の比率を大幅に高めることで、日本製カメラは現代的な工業製品としての体を成した。このことはドイツ製品後追いからの脱却を意味していたし、やがてメイド・イン・ジャパンが真に世界に誇れる美質を身につけたのは、こうした合理化でもたらされた品質向上の成果といえる。
 いっぽうで写真画質に大きな影響を持つレンズ設計と製造も、カメラボディに遅れじと技術を蓄えていった。昭和二十六年から二十八年にかけて、カメラ/レンズメーカーと光学ガラスメーカー5社が共同で行った研究は、こんにちに連なる数々の新種ガラスを生みだし、日本独自のレンズ設計技術に大きな影響を与えている*。

 そうやって進化した果てのカメラを見慣れた目で、もういちどピジョン35というカメラを眺めてみよう。ボディ各部の造作は合理化後の製造工程に一歩か二歩遅れた技術でつくられており、鋳造やプレス工程はまだまだ精度が甘い。またレンズ設計もあきらかに前時代的なもので、絞り開放付近では大量の収差を残している。
 とはいえ、このカメラが不思議と貧しさを感じさせないのは、やはり当時のカメラ業界に漲っていたある種の活気の所為だろう。昭和二十七年といえば、あのGHQが役目を終えて消滅する時期であり(ヤンキー・ゴーホームなどという流行語があった)、北の半島ではまだ戦争が続き、日本経済はその特需で再生のきっかけをつかんでいた。
 ピジョンというカメラが醸し出す不思議なたたずまいは、たぶんこうした時代背景と無縁ではないだろう。このカメラをつくったひとたちは、次の時代に愛好家が求める写真撮影の道具を模索していたはずで、そこに彼らが見いだした答えが「35ミリフィルムを使ったライカ判の簡便カメラ」というものだったのだ。
 残念ながらその答案はそれほど高い採点を得られずに終わる。時代はまだまだ中判フィルムが優勢で、小型カメラはむしろ「お金持ちの道楽」みたいな位置づけにあったらしい。ピジョン35の販売価格は革ケース込みで7900円と、当時としてはけっして廉価な部類でなかった。にもかかわらず、ピント合わせが目測というのもやや中途半端に見られたのではないか。

 手元にあるピジョンは、距離環のフィート表示からたぶんPX(米軍基地内の売店)で売られた品ではないか、という想像は前に書いた。資料を繰るとPXでのカメラ販売は昭和三十五年まで続いたそうだから、その可能性は大いにある。米軍の将校たちがこのカメラの小さな距離環を回して、いったいどんな写真を撮っていたのか。そこに写っていた日本の風景は、きっと今も米国のどこかにあるはずなのだ。

※モデル:宮崎優子

*注:政府の補助金を得てこの共同研究にあたった5社とは現在のニコン、富士フイルム、オハラ、ミノルタ、コニカである。
●参考文献:日本カメラ産業の変貌とダイナミズム(竹内淳一郎氏・他著、日本経済評論社・刊)


2007年02月21日掲載

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