* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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先週のミールに続き、出番のすくない旧ソ連製レンズで。絞り開放付近はご覧のようにソフトフォーカス的描写となる。
Asahi Pentax ESII + KMZ Helios40-2 85mmF1.5 / FUJICOLOR Pro400
(C)Keita NAKAYAMA



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上の画像を拡大。絵が甘いのは手ブレに非ず、レンズの残存収差が開放付近で悪さをするた?


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重戦車ヘリオス40。いろいろ言われがちな旧ソ連製写真機材にあって、このレンズの鏡胴を含めた工作精度はかなりの高水準といえる。ただし重さは閉口するほどのもので、レンズ単体で900グラム弱、ESIIボディとの組み合わせだと1.6キロにも達する。鏡胴はアルミ合金製のようなので、これはやはりガラスの質量が効いているのだろう。
(C)Keita NAKAYAMA

Special Edition 『スプロケット(2)』

 イチサンゴのパトローネから引き出したフィルムチップをスプールに噛ませ、ギアとパーフォレーションの収まりを確認する。こんなカタカナばかりの作業を僕らに強いた、いや授けてくれたのは、ウイリアム・ディクソン(William Kennedy Laurie Dickson: 1860-1935)という技師である。
 ディクソンがエジソンと一緒に史上初の映画システム「キネトグラフ」開発に取り組んでいたのは、十九世紀も終わりの頃だった。やがて完成したこのシステムは大型のキャビネットみたいな箱のなかに映像を投影する方式で、つまり大人数での鑑賞にはまるで不適だったから、スクリーンを用いたリュミエール兄弟のシネマトグラフに負けて消えていった。でも彼らはその後の映画と写真におおきなプレゼントをくれたのだ。フィルム上に穴を開け、そこにギアを噛ませて走らせるという工夫を*。

 エジソンもリュミエール兄弟も、いや映画の黎明期にこの技術開発に携わったひとの多くが、フィルムの安定走行に手を焼いていたことは想像に難くない。それ以前の銀板やガラス乾板にない柔軟性を持つ「ロールフィルム」の発明によって、スチール写真は生命を得たように動きだしたけれど、その動作はまるで出来の悪い紙芝居みたいだった。フィルムを最初から最後まで一定の速度で送るには、摩擦などに頼らない仕掛けが必要で、当初のシステムはそれを備えていなかったのだ。
 そこで考え出されたのがスプロケットとパーフォレーションの組み合わせである。これは(フィルム製造工程の問題はあったにせよ)仕組みが単純なだけに実にうまく機能した。とはいえ、映画が完全に滑らかな動きを獲得するまでには、まだ動力源となるモーターの開発やコマ数増量などの改良、そしてフィルム自体の進化が必要**だったのだが。

 さて。そういう活動写真のカラクリを非活動写真機に移植したのが、二十世紀初頭のオスカー・バルナックをはじめとする技術者たちだった、ということは前に書いた。彼らの目的が映画人のそれとはちょっと違っていたにせよ、その後のフィルムメディア普及に与えた影響は映画と同等か、またはそれ以上に大きい。
 なぜかといえば、スプロケットの歯数を基準に送られるロールフィルムは、大判フィルムのように1コマ撮影毎に入れ替える面倒もなく、また中判フィルムのように裏蓋の赤窓で送りを確認する必要もない。誰にでも扱いやすいこの機構を得て、カメラの大衆化は一気に進んだともいえる。代わって必要となったのはスプロケットの軸を任意の回転角で止め、撮影後にこれをリリースする機構だが、優秀な機械技術者のオスカー・バルナックならずとも、そんな仕掛けはいともカンタンにつくれた、だろうか?

制作協力:クニトウマユミ


*注1:リュミエール兄弟のシネマトグラフは1895年、パリのグランカフェで初上映された(これが史上初の映画上映ということになっている)。興味深いのはこのシステムがエジソンの会社の特許である「有孔フィルムとスプロケット」をもちいていたことだ。エジソンはライバルに特許の使用権を与えたのだろうか?

**注2:初期の映画のフィルム走行は秒間10コマ、後に秒間16コマから現在標準の24コマへと増加した。これは撮影や上映にもちいる機械の性能ではなく、フィルムがきわめて高価であったことによる。また素材もニトロセルロース主体で造られていたため、高速走行時には摩擦熱で発火しやすかったためという。


2007年03月21日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部