* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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使い慣れたズミクロン35ミリ、7枚玉で。建物の外装が弱いレフになっている。
LeicaM5 + Summicron 35mmF2 / FUJICOLOR PRO400
(C)Keita NAKAYAMA



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ほんとうは雨の日に撮りたかったカット。
LeicaM5 + Summicron 35mmF2 / FUJICOLOR PRO400
(C)Keita NAKAYAMA



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フィルム/シャッターのドライブはゼンマイ仕掛け。大型のキーを巻き上げると両方のチャージが完了する。ボディ最上部のダイヤルはフィルムカウンター、その下はコマ速(フィルム給送スピード)調整。クロームのパイプはピント確認用のファインダーで、ビューレンズ用(=撮影用)のファインダーはボディに内蔵されている。軽合金の外装に施された装飾モールド、そして上品な色調の縮み塗装が分かるだろうか。
(C)Keita NAKAYAMA

『贅沢な写真機(2)』

 今も昔も「娯楽の王様」といえば映画、ということになっている。すくなくとも僕が子供の頃は、そういう惹句をあちこちで眼にした。では女王様や王子様は誰なのか。というような疑問を大人にぶつけると、まず間違いなくお叱りを受けたものだ。日本語には言葉のアヤという名のタブーがある。
 前にもちょこっと書いたけれど、映画が生まれたのは新大陸ではなく旧大陸。19世紀の終わりに、フランスのリュミエール兄弟というひとたちが発明したシネマトグラフは、米国の発明王エジソンの発明(類語の重複ご容赦)を蹴散らして大衆娯楽の王座につく。二十世紀に入ってからも、フランスはパテやゴーモンなど大手の映画スタジオがこの分野を牽引していたから、歴史がちょっと違っていたらハリウッドはパリ郊外につくられたかもしれない。
 そうならなかったのは、もちろん戦争の所為である。さいしょの世界大戦で旧大陸が疲弊するあいだ、米国の経済と産業はちゃくちゃくと底力をつけていった。結果、第一次大戦が収束すると間もなく、娯楽映画制作の中心は大西洋を渡ってしまう。その傾向に拍車を掛けたのが、1927年にはじまったトーキー映画なのだそうだ。

 さて。今僕の手元にあるシネカメラは、米国ベル・ハウエル社製の「8ミリ・134カメラ」(この数字がモデル名かどうかは定かでない)である。優美かつ頑強なボディに収まるのは、オープンリール式の有孔フィルム。カメラには8ミリと書いてあるけどフィルム幅が16ミリなのは、記録面の片側づつを往復で使う方式だから。つまりカセットテープみたいに終端まで撮ったら裏返して、フィルム全長の倍の尺で撮れる。撮影後は現像所が半分の幅に切って返却するシステムだけど、映写機は通常の8ミリ用と違う。
 かつて日本ではこの方式を「ダブルエイト」という通り名で呼んでいた。通常の8ミリフィルム(シングルエイト)の二倍を表すベタな命名だ。でも欧米では「レギュラーエイト」とか「スタンダードエイト」「ノーマルエイト」などと呼ぶらしい。なんだかビッグマックが通常サイズといわれているみたいだが、実はこちらが8ミリムーヴィーの元祖なのである。

 その日本名ダブルエイトが市場に現れたのは、1932年のこと。発案したのは米国のメーカーだったようだけど、これは無理もないというか当然というか、その当時に映画をご家庭に持ち込む趣味なんて他の国ではまず考えつかない。欧州ではフツーのひとがようやくスチル写真機を持てるかという時代、日本はそのスチル写真ですら金持ちの道楽である。
 かのT型フォード(フォード・モデルT)が使命を終えてからすでに5年が経ったこの時期、「大量生産・大量消費」という米国の流儀は、欧州生まれの映像文化にも大衆化の概念を持ち込んだのだった。


制作協力:脊山麻理子


2007年06月13日掲載

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