* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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ホームムーヴィーの一場面をイメージして撮った。
LeicaM5 + Summicron 35mmF2 / FUJICOLOR PRO400
(C)Keita NAKAYAMA



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画面ぎりぎりで太陽を入れる。ハレーションとゴーストは70年代レンズの限界、とはいえ今のレンズでは撮れない絵でもある。
LeicaM5 + Summicron 35mmF2 / FUJICOLOR PRO400
(C)Keita NAKAYAMA



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フィルム室はこんな風情、ごくごくシンプルな仕掛けだが各部の工作精度はたいへんに高い。シャッターはレンズ背後とフィルム圧板の間に置かれており、薄い部材の透き間に高速運動するメカを収めた設計はメカ好きにはたまらないものがある。この状態で重量は1170グラム。ボディは小型だがずしりと重い。リールの数字は往復撮影ができるダブルエイトならではのもの。
(C)Keita NAKAYAMA

『贅沢な写真機(3)』

 ダブルエイトカメラの標準コマ速(フィルム走行速度)は16コマ/秒*。商業映画用のシネカメラ(通常24コマ/秒)と比べると3分の2のスピードで、たぶん記録時間と上映品質のバランスシートでこのあたりが妥協点だったのだろう。ちなみに僕らが使っているスチルカメラは、プロ用の一眼レフでも最速で秒間10コマ前後だから、じゅうぶんに速いといえばそうである。
 もちろん記録面積の差もあるので、単純な数値比較は意味がないけど、スチル写真の愛好家がシネカメラのスイッチを押すと、フィルムを湯水のごとく消費する感覚にちょっとびびると思う。ムーヴィーはやはり贅沢な趣味なのだ。

 贅沢といえばレンズもそうだ。僕の手元にあるベル・ハウエルのシネカメラには、撮影用とビューファインダー用がそれぞれ3本、合計6本のレンズが円形のターレット上に並んでいる。ズームレンズがまだアマチュアの手の届かない存在だった時代の名残とはいえ、技術の限界をお金で解決しようという力任せの雰囲気が漂う。
 それぞれの撮影レンズには、ピント確認用のファインダーが別途に設けられている。接眼部とレンズの間に磨りガラスを置いただけの単純な仕組みなので、とうぜん天地が逆像になる。これは写真レンズの原理を再認識させてくれるという教育的効果もあるけれど、撮影用のファインダーは固定焦点だから露光中のピント移動はまず不可能。被写体はなるべく二次元上で捉えないとピンボケの嵐となるはずだ。今ならそれも味、と笑えるかもしれないが、当時は失敗にほぞを噛んだひとが多かったに違いない。

 とはいえ、機械としてはとてもよく出来ている。このカメラは1950年代の製造だけど、基本はその20年も前の設計をそのまま踏襲していて、どの部分を観ても工作精度はたいへんに高い。シャンペンゴールドの縮緬塗装など外装の仕上げも素晴らしく上質だ。スチルカメラでいえば往時のライツ製品にも匹敵するクオリティといってもいい。メイドインUSAは大味だなんて、いったい誰が言ったんだろう。いや、僕の勝手な思い込みか。
 そう、精密なものを精密につくることに関して、彼らはけっしてどの国にもひけを取らなかった。たとえば1927年に初公開されたトーキー映画、あれはフィルム面に光学式のサウンドトラックを設けて音を同時記録する方式だったけれど、その上映システムにはミクロンオーダー(今風に言うとマイクロメートルオーダーか)で加工された読み取り機構が必要だった。
 例によって余談だけど、このトーキーシステムはかのAT&Tの研究開発部門であるベル研究所が手がけ、音響機器は「ウェスタン・エレクトリック」のブランド名で映画産業に供給されていた**。このシステムは戦前から日本にも供給され、ただし販売ではなくリース契約(これは全世界共通)だったため、映画の興行利益のかなりの部分が召し上げられる。そこで日本でもおなじようなトーキーシステムを自前でつくろうとしたようだが、部品の加工精度がまったく及ばず上手くいかなかったそうだ。
 そんな機械が全米の主要都市に、すくなくとも1930年代のはじめには配備されていたのだから、アメリカはやはり恐るべき国である。


制作協力:脊山麻理子

*注1:のちに規格化されたシングルエイトやスーパーエイトは若干コマ速を上げて18コマ/秒となった。

**注2:AT&T(American Telephone and Telegraph)は全米にネットワークを配する電話会社。電話を発明したアレクサンダー・ベルが設立した会社を母体とし、一時は全米の電話サービス網を一手に引き受けていた。また同社のR&D部門であるベル研究所は通信・コンピュータ技術の発達に多大な影響を与えている。AT&Tグループは米国の国策から永らく市場の寡占を許されてきたが、二十世紀後半には独占禁止法の適用で何度かの解体が進み、現在は複数の会社に分割されている。


2007年06月20日掲載

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