* 週刊フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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「レリーズボタンはここにあります」
Leica M5 + Summicron 35mmF2 / FUJICHROME ASTIA100F
(C)Keita NAKAYAMA



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「不思議の国の小道具」みたいなカメラである。
Leicaflex SL2 + Summicron 90mmF2 / FUJICOLOR REALA ACE
(C)Keita NAKAYAMA



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シャッターを引き上げると撮影スタンバイ。後の操作は構図を決めて押すだけである。レンズは上下ともに固定焦点で、つまりこれは二眼レフとは違う(フォクトレンダー風にいえば「ブリリアントファインダー」だ)。ビューレンズが四角いのはデザイン上のお遊びと思うが、当時普及がはじまっていたTV受像器をイメージしたのだろうか。組み立てにプラスネジを使っているところに注目、もしかするとこのカメラが最初の例かもしれない。
(C)Keita NAKAYAMA

『贅沢な写真機(10)』

 ところで「工業デザイン」という概念はいつの頃に生まれたのだろう。
 いぜんにエキザクタの項で記したように、それは二十世紀初頭のことであるらしい。第一次大戦を挟んで、さまざまな生産現場で自然発生的に起きたその流れは、1919年に設立された「バウハウス」というデザイン学校で芸術と統合され、確かな骨格を成すことになるのだが、これは旧大陸のお話し。
 では新大陸ではどうだったかというと、その起源はやはり第一次大戦後のあたりにあるというのが定説だ。全米が空前の好景気に沸き、「大量生産・大量消費」という、いわばアメリカ社会そのものを動かす永久運動機関が回り始めた時期である。新旧ふたつの大陸における工業デザインの違いは、それを消費する大衆の数の差とも、また消費のスピードの差ともいえるのだが、多くの国が戦争の痛手を負ったヨーロッパでは大量消費など望むべくもなかった。

 旧大陸のワイマール共和国にバウハウスが設立されたその年、ひとりのフランス人が大西洋を越えニューヨークに渡る。まだ二十代半ばだった彼は(他の多くの移民と同様に)不況に喘ぐ祖国に見切りをつけ、僅か40ドルの所持金で海を渡ったのだった。新しい街での彼の仕事は、デパートのショーウインドの装飾やファッション誌のイラスト制作などだったが、やがて工業製品の外装デザインで大きなチャンスを掴む。それは複写機の意匠で、彼の仕事としては畑違いのようにも思えたが、もともと祖国では電気工学の学校を出ていたし、航空機の模型制作で賞を取ったこともある。
 彼、レイモンド・ローウィの名はこうしてアメリカの産業界に浸透していく。

 ローウィの死後二十年余が経過したこんにちも、彼の仕事を編纂し研究する資料は数限りなくある。そのどれに目を通しても、このデザイナーの卓越したセンスと好奇心、そしてバイタリティに打ちのめされるだろう。とはいえ彼は、例えばダ・ヴィンチのような万能の天才とはすこし趣を異にする。確かに(「口紅から機関車まで」の惹句のとおりに)仕事の間口は恐ろしく幅がひろい。だがその芸風はそれほどヴァラエティ豊かというわけでもない。
 人の心を刺し貫くわけでもなく、「しな」をつくって誘惑するのでもない。そんなローウィのデザインが多くのひとの心を捕らえたのは、最新のモードを工業製品で消費するという、いわば言葉にしやすい「豊かさの幻想」が常にあったからだろう。つまりローウィはある意味、アメリカそのものだったのだ。

 ローウィに「新しいカメラのデザインを」という仕事が舞い込んだのは、二度目の大戦が終結してしばらく経った頃のこと。依頼主は戦前にドイツ製のフィルムや写真機を販売していたニューヨークの会社だった。


制作協力:脊山麻理子


2007年09月12日掲載

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