* 連載フォトエッセイ*

Classical Photo-gear Explorers 東京レトロフォーカス

  文・写真/中山慶太 --->Back Number


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今回はホリゾントで。フジカST605はいぜんに紹介したボディの予備として棚の奥に眠っていたもの。4年ぶりに切るシャッターはしごく快調だった。
Fujica ST605 + Fujinon 55mmF2.2 / FUJICOLOR REALA ACE
(C)Keita NAKAYAMA




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フジカに装着したレンズはST605ボディとセットで売られた品(非EBC、おそらくモノコート)。カラー再現は暖色系、絞り開放付近ではやや軟調だがトーンは豊富だ。
Fujica ST605 + Fujinon 55mmF2.2 / FUJICOLOR REALA ACE
(C)Keita NAKAYAMA




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ヤシカ銘を持つ最後のSLRで撮影。こちらはいぜん紹介したボディに不備が生じたので知人から借用。レンズはマルチコートで抜けは良いがカラー再現はわずかに冷調か。
Yashica FX-3 + Yashica ML50mmF1.9 / FUJICOLOR REALA ACE
(C)Keita NAKAYAMA


『SLRとの対話 #16』

 浜松のK先生のもとに滞留していたカメラ一式が戻ってきた。いぜん会話のおりに興味を示されたので、なかば無理矢理に送りつけた国産SLRである。
 なぜそんなお節介をしたのかといえば、カメラの重さを案じてのこと。K先生は新旧ドイツ製の名機を常用される方なので、昔の国産機では(物理的にも心理的にも)手応えが軽すぎると思えたのだ。
 こちらの予想が当たったのか、数か月の滞留期間にも使用頻度はあまり高くならなかった由。それでも「舶来の著名な品と比べて、写りに明確な差はない」という控えめなお褒めをいただいた。これはオーナーへの気遣いかもしれない。でも70年代の国産カメラのあるものは、おなじ時代のライカやツァイス製品に比べて、すくなくとも写りの質という部分ではけっしてひけを取らない。描写は違うけども優劣はつけがたい、これは僕も同意見である。
 ではそういうカメラが、なぜK先生の琴線に触れなかったのか。
 カメラに添えられてきた「夜のお菓子」(先様地元の名産品)を、夜更けにぱりぱりと食べながら考えた。海外の一流品に肩をならべ、やがて市場から駆逐してしまった70年代の国産SLR。そのカメラたちは、はたしてあの時代の何を象徴しているのだろう。

 岡本太郎と三波春夫で幕を開けた日本の70年代。それは爆発する芸術のシンボルや陽気な音頭とはうらはらに、カメラ産業にとっては苦難続きの十年となった。いやこれは日本に限らず、世界中のどの工業国でも事情は似たようなものだったはずだ。でもこの時期にカメラらしいカメラをつくっていたのは日本と西ドイツ、それに旧共産圏のわずかな国々だけである*。
 それ以前、カメラは世界のいろんな場所でつくられていた。まともな図面を引く設計者がいて、きちんとした機械加工ができる工場さえあればカメラは形になったし、そういう製品をつくる国には(いや、つくれない国にも)写真の道具にお金を払うひとたちは必ずいたのだ。
 そのカメラ生産国も櫛の歯が折れるように減っていき、カメラといえばメイドインジャパン、という時代になったのが70年代。だから日本のカメラ産業はどこも左うちわで商売繁盛、というわけにいかなかったのはなぜか。それにはふたつの要因があった。
 ひとつ目はおもに経済に関する問題で、ニクソンショックと呼ばれるドル不安によって輸出産業が打撃を受けたのが70年代初頭。これに続いて、中東の戦争に端を発するオイルショックが起きた。これらがカメラ産業に与えた影響については、前にライカM5の項で記した通りである。複雑なモノゴトを単純化して情報を圧縮すると、それまで安くつくれて大量に売れたものが、とつぜんそうならなくなった、ということだ。
 輸出産業としてのカメラづくりに影が差しはじめれば、メーカーはそれまで以上に国内の需要を重視する。地産地消は当然の流れではあるけれど、でもこの時期に趣味の道具としてのカメラは多くの家庭に行き渡っていた。そこで各社アタマをひねったのが買い換え、というより買い増しの動機付けである。
「高品位な写真が誰にでも簡単に撮れる」では、キャッチコピーとしてまだ弱い。これからは「プロの道具をより身近に」。そんな幻想をユーザーに与えるために、もっとも適していると思われたのがSLR、つまり一眼レフだった。
 こうしてSLRの大衆化は70年代のなかばから一気に進んでいく。その方向性が正しかったのか、それは意見が分かれるところだろうけれど、僕個人としては間違った判断だと思っている。それは当時のカメラ産業に打撃を与えるもうひとつの要因となっただけでなく、多くの写真家たちに偏った知識とイメージを植え付けるきっかけとなったからだ。


制作協力:クニトウマユミ


*注:念のために記せば、西独のカメラメーカーはこの時期海外に生産拠点を持っていた。ライツはカナダとポルトガルに、ローライはシンガポールにそれぞれ工場を構えたのだが、これは自国での生産コスト高騰に耐えかねてのことという。ただし(レンズ設計まで担当したカナダライツを除けば)カメラ設計の根幹は本国におかれていた。


2008年10月01日掲載

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