* 週刊フォトエッセイ*

「今日もカメラは回る」

  文・写真/根岸泉 --->Back Number


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Roll 17 エキストラ その1 「ある街角の風景」

 アタッシュケースを小脇に抱え、腕時計に目をやりつつキビキビと歩を進めるビジネスマン、お互いの肩をこづきあいながらもつれるように歩く女子中学生3人組、サッカーボールを小脇にかかえ何があるのか前方を指さしながら駆けて行く小学生2人、両親に両側からぶら下げてもらうようにして歩いて来た幼児は今度は肩車をしてもらっている、くそまじめそうな高校生は単語カードから目を離さず歩いていく、制服を着た若いOLの二人組は何か耳打ちしあっていたかとおもうと急に笑いだす。

 これらはどこにでもありそうな、どこかで見たような、いつでも見られるような、でも本当にあったかどうかわからない風景である。
 ひとつひとつはあるいは実際にあったかもしれないし、これから見ることもあるかもしれない、しかし普通に生活している人間にとってこれらの現象が一瞬のうちに眼前に起こることはまずない。

 しかしこんなコテコテな状況がしょっちゅう起こっている場所がある、それは映画の中だ、主人公とその恋人が公園のベンチにあるときその背後ではこのようなステレオタイプがてんこもりにおこなわれている。

 (・・・というか、実は上記にあるような風景は本当はどこにもなく映画の中で見たものを我々が心象風景として取り込んでいるだけという可能性すらある、でなければ何故我々の思う街角の風景はこうも似通っているのか?)

 つまりはリアルでない、実際の街で人はおおむねただただ無表情に歩いているだけだ、(最近であれば携帯電話を耳にあてて歩いている人が10人中3人くらいいるかもしれない←数字に根拠なし)まわりを見回したり、指さしたり、わらいさんざめきあったりする人を見かけるのは稀なのだ、にもかかわらず映画の中の人々は1カットの中でまわりを見回したり、指さしたり、わらいさんざめきあっていたりする。

 なぜこんなことになってしまうかと言えばそれは日本映画の貧しさにつながる、こういうその他大勢(エキストラ)は「仕出し」と呼ばれ、専門の業者から派遣されてくるのだがたいていは登録制のバイトであっていろんな意味でプロではない(だからギャラが安くてすむ)

 ところで、芝居のうち雨の中で泣いたり、泥の中でのたうち回ったりする事はむしろ簡単であり、真に難しいのは普通の生活感を出すことだ、普通にしてりゃいいじゃん? と人は思うかもしれないがカメラが睨み、ライトが当たり、大勢のスタッフが注視している撮影現場は非日常も極まる空間なのであって、そこで「普通」に何かすることなどは誰にもできない、するべきは「普通に見える演技」なのだが、変わったバイトがしたい、撮影現場を覗いてみたい、スターが間近で見られるかも、というバイト君に出来ることではない。

 さらにまずいことにその演技指導をするのは助監督なのだ、監督は手前の主役の演技を見るのに忙しいので「後ろは適当に動かしとけ」ということになる。
 エキストラを大勢呼べる日は限られているので撮り残しは許されない、一から十まで監督が面倒みていたのでは時間がかかる、分担して演技をつけようということでもある。

 経験少ない助監督が経験無しに等しい仕出しに(短時間で)演技をつけることになる(無理だ)、けっきょく共同幻想に支えられたステレオタイプな演技をつけることになる、それは説明しやすいし演じやすい、いかにも何かやってますという雰囲気も出る、かくして映画の中にしかあり得ない「街角の風景」は再生産されていくのだ。

 すれっからしの映画マニアは今日も主人公の後ろを見ている。


2002年02月06日掲載

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