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赤外線暗視装置
(多分旧ソ連製 神谷誠氏所蔵)


* 週刊フォトエッセイ*

「今日もカメラは回る」

  文・写真/根岸泉 --->Back Number 




Roll 18 エキストラ その2 「Region」

 ヘルメットにオリーブドラブの戦闘服を着た一団が列を組んで画面手前を上手から下手に走ってゆく、画面奥にはテント張りの戦闘指揮所が置かれ無線機の前では通信兵がマイクに向かってなにごとか喋っている、指揮所の前では双眼鏡であたりを警戒している幹部が数人、そこに伝令とおぼしき兵隊がひとり駆けてきたかと思うやしゃっちょこばって敬礼、何事か奏上すると再び敬礼、キリッと180度向きを変えると走り去ってゆく、奥から幌付きトラックが到着するとこれをキビキビとした動作で誘導する兵隊さんもいる、と画面奥の下手から小走りの一団が現れて上手に向かって走ってゆく、あれは先ほど下手に切れた人たちでは? 戻ってくるくらいなら最初から上手にいりゃいいのに・・・

 というのがご存じ「怪獣をむかえて緊張する最前線」の一幕である、前回と同じような(つまり揶揄調の)書き出しではあるけれどこれが前の「街角の風景」と決定的に違うのはこれが絶対に見たことがない風景であることで、今「ご存じ」とは書いたけれど本当にこれが「そうそう、そんな感じ」と思えるならそれが映画的記憶であることが確実だと言うことだ。

 「街角の風景」がそれが本当に見たことのある風景なのか映画の中で見たものなのかもはや判別不能であるのに対して、「実戦配備の自衛隊が市街地で展開するの図」を見た者は誰もいない、にもかかわらず「そうそう」という印象があるならそれは似たようなシーンが数限りなく映画の中で繰り返されてきた証拠と言える。

 でもしかし、何故「誰も見たことがないシーン」が似通うのか?

 それはもちろんある程度事実に即しているからだということはあるだろう、自衛隊全面協力という映画もあるし、演習風景を見たりして助監督も勉強していると、でもこれまた「街角の風景」で言ったことだが一つ一つはどうあれこれら様々なことが一瞬のうちに眼前で起こるはずはない、起こるはずのないことが起こっているのはそれが映画的自衛隊であるからだ、ではなぜ映画的自衛隊は皆似ているのか? それは助監督が過去の映画の記憶から今の芝居を付けているからだ。

 助監督は映画の虫だ、そうでなくては悲惨な職業ベストテンを作ったら絶対ランクインするようなこんな商売は続けられない、彼らは映画を観て育ち、映画を夢見て職に付き、映画の中で生きている、悪い話ではない、彼らの献身がなくては映画は成り立たない、でも彼らはともするとスクリーン越しに世界を見ている。

 一般人にとっても実体験と映画的記憶の境目は実はあいまいなものなのではないか?という疑いは前回も述べた、映画の虫は映画的記憶をもっと抱え込んでいる、ならばそこで「見たことも体験したこともない」シーンの演出をしなければならなくなったときどうするか? ということが今回の答えの全てとなるだろう。

 などと言っているが実はこれは人ごとではない(映画の虫は特撮の現場にこそ大量に発生している)何事かを創ろうとするとき、そのために自分の記憶をさぐろうとするのは当然のことだ、しかしそこで無反省、無自覚であればいつかどこかで観たあのシーンを再生産するだけということになりかねない、これをステレオタイプと言う、そんな映画は作る価値も観る価値もないだろう。


2002年02月13日掲載

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