写真
---> 拡大表示

時代劇はつらいよ


* 週刊フォトエッセイ*

「今日もカメラは回る」

  文・写真/根岸泉 --->Back Number 




Roll 20 エキストラ その4 「A.I.」

 操演などという商売をしているといきおいおつきあいの相手は怪獣・巨大ヒーロー・宇宙人などになり、舞台は未来都市や宇宙空間、はたまた人跡未踏の地となり、小道具は腕時計型通信機であったりする。マゲを結ったお侍やちゃきちゃきの江戸娘なんてのは縁遠いのが普通だ。
 普通なのだが先だって珍しく「怪談もの」のお仕事で京都へ招かれた、時代劇のスタッフの中に操演部と特殊メイクだけが東京から参加したのである。

(ところで話はそれるが今や東京では時代劇は撮れない、私が業界入りしたときはどの撮影所にも時代劇オープン−つまり江戸の街−があったものだが業界が斜陽になるにつれそれらはどんどんつぶされてしまったのだ、もっとも今たとえオープンセットがあったとしても東京近郊にはロケが出来るような場所がないので事実上時代劇の撮影は不可能なのだが)

 さて、行って驚いたのが京都ではいまだに大部屋システムが機能しているということだ、詳しい話は聞かなかったし、かつてのような撮影所がまる抱えしている俳優さんではないと思うのだがともかく常連の「その他大勢」がいっぱいいるのだ。

 彼(彼女)らは呼ばれて、今日は町人ですと言われれば自動的にその役に成りきることが出来る。
 そのため「これは長屋の朝、明るく元気なシーンです」と言われれば助監督に口づてで科白を決めてもらわなくとも、「ちょっくら行ってくるぜ」といなせに駆け出す鳶、「あら、源さん今日も威勢がいいねえ」と声をかける隣家のおかみさん、井戸端で洗い物をしている若い娘、それをなにやらからかうおばさん連のどっと湧く笑い声・・といった芝居を勝手にやってくれる。

 そんなありがちなシーンでなく「顔見知りである長屋の住人伴蔵が枯れ木に串刺しにされて惨殺されています、皆はそれを遠巻きにして見ているところです」などという場面でも、本番時には「ああ!伴さん、なんでこんなことに」「ちっくしょういってえ誰の仕業だ」「ナンマンダブナンマンダブ」「おいおい、かわいそうじゃねえか誰かおろしてやれよ」などと勝手に芝居をしてくれるわけだ。

 こいつは楽でいい、まるでAIをそなえたNPCみたいだ・・ってゲームをやらない人にはなんのことだかわかりませんが、つまりは半自動化されたエキストラということ、こういう俳優陣があればこそ演出部は主役の芝居のみに集中できるわけで、1週間に1本1時間番組が作れるというものです(たとえば特撮TVは、本編、特撮の2班が同時に稼働して1週間に30分番組1本撮るのがやっとなので1班編成で1時間ものというのは驚異なのです)

 とは言えこれにはもちろん弊害があって、つまりはステレオタイプも極まれりということ、彼らが1800年代の市井の民の暮らしを芝居の規範にしている−ということはもちろんなくて、参考にしているのは当然過去の時代劇、誰もが思う「時代劇」の町人のイメージを忠実に再現しているだけです、つまりここにも共同幻想の拡大再生産という構図があるわけだ。

 過去3回は未熟な俳優(とも呼べない人々)や未熟な演出者のよりどころとしてのステレオタイプであったわけですが今度はそうではない、擁護するならこれは時間稼ぎのための必要悪で、前者が制作費に占める役者のギャラを抑制するためのものであったとすればこれは撮影期間の短縮のため、はげしく大ぐくりに言えばやはり日本映画の貧しさのなせるわざです。

 でも「しかたないよね」「お金と時間があればね」などと言っているうちにこれをおかしいと思う感性は摩滅し、バジェットの大きな仕事をしてもいつもエキストラは同じ芝居というハメになりかねない。

 「新たな映像表現に挑戦」したり「時代を鋭くえぐったり」するのもいいけれど、映画に首まで漬かっている我々はなんの違和感も持たず、疑問も抱かぬまま落とし穴に落ちている可能性があるということを忘れるべきではないだろう。
 最低限「映画を参考に映画を作るのはやめようね」と私はあらためて関係者に言いたい、気が付いてみるととっても恥ずかしいからさ。


2002年02月27日掲載

<--Back     Next-->



Webmaster :
ammo@tokyo.fujifilm.co.jp
Copyright :
マカロニ・アンモナイト編集部