* 週刊フォトエッセイ*

「今日もカメラは回る」

  文・写真/根岸泉 --->Back Number


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Roll 22 スクリプター

 右手にストップウォッチ、左手にクリップボードを持ち、監督の脇に立って映画の全てを記録する女、それがスクリプターである。

 スクリプトシートを見せてもらっても特に何が書かれているようには見えないのだが、彼女らは文字通り映画の「全て」を記録している、あるカットの秒数、芝居、セリフはもちろん、カメラアングル、役者の立ち位置、目線、衣装、小道具は何をどちらの手で持っているか、時にはヘアースタイルからメイクまで全て。

 映画は連続したカットでも続けて撮っているとは限らない、2人の人物が会話しているシーンでは片方の人物向けを先に全部撮り、つぎにその人物が話している相手を全部撮る方法(「片押し」と言う)を取ることがよくある、1カットごとにカメラが移動しライティングを変えるわけにはいかないからだが、しかし時にそのあいだが何時間も、ヘタをすれば何日も(何週間も)空くということがある、こんな時芝居のリアクションやタイミング、目線を合わせるのはもちろんだが、それが食事のシーンでもあった日にはテーブルの上の「消え物」(食べるとなくなっていく物)のどの皿がどのコップがどのカットの時にどれだけ減っていたか、フォークの位置、ナイフの位置、灰皿の上のタバコの煙は灰はどうか、というところまで記録しておかなくてはならない。

 しかしあったりまえのことなのだろうがそんなことでとまどっているスクリプターなんて見たことはない、というか監督に突然1ケ月も前のカットの「そんなことまで記録してるはずない、覚えていられるワケない」と(ハタから見れば)思うようなささいな事を聞かれて「即答」できないスクリプターも見たことがない、いったいに彼女らの頭の中はどうなっているのだろうか?

 さてその彼女らは現場で能動的に動くことはあまりない、寡黙に控えめにただひたすら記録をとっていくだけだ、にもかかわらずスクリプターは監督の補佐役として重要な位置にいるのである、サジェスチョンをすることはめったになく、演出プランを聞き、監督の質問に時々答えているだけと見えるが監督はスクリプターをたよりにしている、助監督は文字通り監督の補佐役であり、カメラマンは監督と並ぶ現場の要であるはずなのだが、スクリプターが監督のよりどころであり、精神的な支えであるらしいのは不思議なものだ。

(この事情は洋の東西を問わないものらしい、アルフレッド・ヒッチコックは初監督作品「快楽の園」で1カット撮るたびスクリプターに「よかったか、これでいけると思うか?」と聞いていたという、このスクリプター、アルマ・レヴィルが未来のヒッチコック夫人である)

 これについて思うことはつまり話を聞いてくれる相手がいるだけで人は問題を解決出来るのではないだろうか? ということだ、相談する時すでに人は自分の意志は固まっている、と言われるゆえんである。

 男社会である映画のなかの女の孤塁、スクリプターがその包容力(これは職種としての特性もさることながら女性であることも重要な要素だろう)が監督を支え映画を支えているとするならばこれはなかなか面白いことではないだろうか。


 先にスクリプターが現場で能動的に動くことはあまりないと書いた、しかし彼女らが現場に出て声を上げることがたまにある。

 曰く「芝居が違う、このカット割りじゃつながらない、そのカメラワークだと編集が難しい」

 めったに開かない口であるからその言葉には重みがある、スクリプターがメインスタッフに異議を申し立てるならばそれはよくよくのことであるはずで現場は緊張する、しかしおよそ理性ある映画人ならばその意見は黙って拝聴するのが普通だ。


2002年03月13日掲載

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