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35ミリカメラ


* 週刊フォトエッセイ*

「今日もカメラは回る」

  文・写真/根岸泉 --->Back Number 




Roll 56 二枚腰

 映画製作には多くの資金を必要とし採算というものを抜きにしては語れない、作品を発表し続けるためには元を取り利益を出さねばならず、それは必然的に不特定多数の支持を得る−簡単にいえば大衆にうける−必要が出てくる、そのため限度を越えて独創的であったり実験的であったりする作品を作ることは出来ない。

 だから映画はつねに芸術と興行(見せ物)の間を揺れ動いている。

 さて日本の津々浦々には多くの大学、高枚があり、そこには多くの映画研究会、アニメーション同好会がある、彼らに多額の予算はないかわりに商業主義の枷もまたない、とすればその自由な立場から真に独創的、実験的な作品を生み出せるだろうか、といえば実はそうでもない。

 何故かと言えば通過儀礼という物があるからだ。

 それがどういう物であるかは彼らが何を求めてそこに集うはめになったかで決まる。
 時にはそれはたった一本の作品であることもあり、あるいは一定の傾向の作品群、又はその象徴たる作家の名前であることもある。

 私の参加したW高校アニメーション同好会ならばそれはノーマン・マクラレンでありイジー・トルンカでありウイリス・オブライ工ンであった、日本の作家であれば川本喜八郎、岡本忠成がそうだったろう。
 雲上人にあこがれたあげくにアニメ研に入った彼らのまず作るものは「あの作品のあんなカットを自分でもやってみたい」といったものであることが多い。

 まあそれは特に責められるわけのものでもない、何事によらず事は模倣から始まるのであり、絵でも書でも、たとえば文章ですらも自分がこれと信じた人のマネから勉強は始まるからである。
 しかし実際には「ひととおり」やった後に独自の路線を歩みだすかといえばそんなこともなく、三年なり四年なりの期間を楽しく遊んで終わりになる場合がほとんどだ。
 短篇アニメに必要なものは1にも2にもオリジナリティである筈なのだがそこまで望まないのが普通である、なんにしてもサークル活動なのだ。

 ならば結局誰がオリジナリティを発揮し独創性を追求しているのかと言えば実は商業主義の先陣を切っているプロであったりする。
 真のプロフェッショナルはあたりまえだが人まねを嫌い新たな表現を追求している、その発表の場を得るためには会社をだまして資金を出させ、観客をだまして劇場に足を運ばせなければならない、その上で自分の表現を作品に盛り込むわけだ、二枚腰三枚腰のしたたかさがなければ今第一線の監督稼業はやっていられないのである。


2002年11月27日掲載

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