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アニメ塗料


* 週刊フォトエッセイ*

「今日もカメラは回る」

  文・写真/根岸泉 --->Back Number 




Roll 61 滅びの道

 私が思うにアニメーション作品においては監督に好き勝手に撮らせてはいけないと思う。

 描けるものなら何でも表現できるアニメーションでは作品は監督の思うとおりのものになりやすいと前回書いた。しかしそこから出ててくるものは監督と等身大のものになってしまう、監督が偉大な才能の持ち主であればそれは偉大な作品たりうるだろうがそれでもそれは監督のでっぱりひっこみに添い、長所も欠点も忠実に引き継いでしまう。

 この予定調和を壊す外部の力が働いたほうがふところの深い作品になると思うのだ。

 具体的に言えばそれはプロデューサーやシナリオライターの役目だろう。監督が駆けだしの頃は多少意に添わない企画でも脚本でも撮らざるを得ない、我を通せば降ろされかねないからだがその中で自分なりの世界観を出そうと必死になりその葛藤が思いもかけぬ良い効果を生むということがある。

 今一部のマニアにカルト的人気のある監督がいる、若いころは自分のテイストとかけ離れたスラップスティックなギャグアニメを演出していたのだが、そのドタバタの中に自分らしさを盛り込もうとするあがきが一種異様な味となっておもしろかった。

 氏はやがて大家となって発言力が増し自分の企画が通るようになった、すると狭い穴を深く深く掘り下げるような世界観を構築し、どんどん世界が閉じていってしまった。
 間口が狭いので一部の熱狂的ファンが存在する一方、一般受けは全然しない作品ばかりになってしまったわけだ。
 彼もそのファンもその深くて狭い穴の中にいて満足なのかもしれないが昔を知る者としてはもったいないと思う。

 またもったいないというばかりではない。イエスマンばかりで出来た組織はいずれ崩壊し、多様性を失った生物は絶滅する、それは緩慢な滅びの道である。

 プロデューサーやシナリオライターとケンカせずに済ませるということは自分の限界を超える可能性を捨て去るということでもあるのだ。


 故伊丹十三氏は次のように言っている。

『それにしても、この映画は明らかに自分を超えた。自分ひとりで思うままに作ったら決して超えられなかったであろう限界を、複数の力でやすやすと越えてしまった』と。
※「お葬式日記」(文藝春秋)

(次回、実写映画で必要なもの「瞬発力」)


2003年01月08日掲載

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