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飛行機からの見た目撮影中


* 週刊フォトエッセイ*

「今日もカメラは回る」

  文・写真/根岸泉 --->Back Number 




Roll 132 Viewpoint <4> Sightline

 1組の男女が机を挟んで会話している、カメラはそれを横から捉えている、「神の視点」だ。
 やがてカメラは男の「見た目」になり、次に女の「見た目」になってそれぞれの顔を捉える。

 スクリーンにこれは客観映像であり、ここから主観映像です、と印が出るわけではない、にもかかわらずその移り変わりは自然であり観客がそれを意識することはない。
 あるいはこの客観映像を第三者の見た目であると間違って判断し、その場にもう一人居るのだと誤認することもない。

 逆の場合もある。孤独なスナイパーがビルの屋上で一人狙撃のチャンスを狙っているとする。よくあるシーンであり観客はカメラの視点を第2の人物の視点とは受け取らない。

 しかしスナイパーをそれとさとられずに監視している目があった、という状況も時にある。カメラは監視者の視点だ、しかしその場合観客は即座にそれを理解する。

 山荘の中で浮かれさわぐ若者を窓越しに捉えた映像があったとして、それが状況説明なのか、殺人鬼ジェイソン君の見た目なのか区別がつかないことはない、というのも同様だ。

 この差異を言葉で言い表すのは難しい。あえて言えば客観映像はしっかり対象を見せ、主観は不自由、あるいは不安定に捉えるとでも言えるだろうか。

 対象とカメラの間に遮蔽物、壁とか窓枠とか木の葉とかが画面の均整を壊すほどに入り込んでいれば、それは見た目である証拠と観客は受け取るし、カメラが人の目の高さで移動すれば主観であると受け取られやすい。それが手持ちカメラ(揺れる)であればなお良い。

 主観と客観の混同は映画に大きなダメージを与える、これをちょっとした工夫で間違いなく描き分けるテクニックは改めて考えれば驚くべきことではないだろうか。

つづく


2004年06月23日掲載

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マカロニ・アンモナイト編集部